表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

聴こえない音色

作者: サメラバリー
掲載日:2026/02/16

私がピアノに触れたのは小学4年生の頃だった。

私の父はパリから来日し、生粋の日本人の母と豪華な一戸建てに住む実業家だった。お金には困らず、周りからすると羨ましい家庭だった。

私自身、引っ込み思案ではあったが、優しい友達に恵まれ、幸せだった。その中でも、杉浦智也くぎうらともやという幼馴染みの男の子と将来を誓い合う程、親密な関係を保っていた。

私はピアノの稽古が智也と同じぐらい好きであった。習い事は無限の可能性を秘めている。智也との将来も選択肢はあったが、私達はお互いがいないといけないと思う程、大切なのは確かだった。

私はピアノのコンサートでずっと大成功を収めて来た。それは、智也も同じでヴァイオリニストとして人々の注目を集めていた。

二人で春のコンサートを演じたのは私達が19歳程の頃だ。

「大丈夫かい?お姫様」

おどけた調子で智也がスラリとした黒いドレス姿の私を微笑ましく見て言う。

「こんなコンサート、恥じても仕方ないわ」

私は「止せよ」と言わんばかりに智也の視線を手で薙ぎ払う。

人々はざわついていた。

あの日の照明を私は一生忘れない。私達は輝いていた。お嬢様のやなぎ・ランス・愛佳まなかという熟練のピアニストと愛された家庭で育った杉浦智也というハンサムなヴァイオリニスト。私達は将来を約束され、何不自由していなかった。

あの事故があるまでは。


その瞬間は私には何が起こったのか分からなかった。一瞬、車体が凄い衝撃で宙を待った。その後、劈く悲鳴と真っ白になる視界の中で、生ぬるい血がお気に入りの服を染め上げるのを見た。

運転席にいたパリ人の父は即死だった。母を庇うようにして死んでいったのだ。

母は大きく嗚咽を挙げながら、ガラスの刺さった両手を血と肉塊と化した父に伸ばして泣き噎せびっているようだった。

そう見えたが、違うかもしれない。私にはその声がもう届くはずが無かったのだ。

その家族旅行中に今までの幸せの代価として、私は聴力を喪った。


無音ーー。

怖いぐらいの静寂。

母は嘘を吐いていた。「すぐに良くなるからね」と丁寧な文字で紙に書き殴っていた。母と医師の顔つきからして相当深刻らしい。笑顔が空々しいのだ。

黄色い花が不吉な意味を指すと知ってか知らずか昔ながらの友達が和風の瓶に飾って行った。

何もかもが現実味を失っていた。私というアイデンティティさえも壊れて私が私でなくなる気がした。

智也に何と言えば良いのだろう。

涙ぐむ自分の弱さに嫌気が差す。見ることは幸い何の弊害も無かった。他に両手足不自由せず、ただ聴こえないのだ。

それは私のピアニスト人生の終わりを意味していた。そして、更に私の人生さえも終わりを意味していた。私は自死を少しずつ意識していたのだ。

こんな私を智也は嫁にできない。智也のためでもある。終わりだ。何もかも。

私は泣きながら耳に触れ、窓の開けっ放しの病室に入って来た茶色い小鳥を観察した。何か鳴いているのかもしれない。耳障りかもしれないし、心地良い鳴き声をしているのかもしれない。

今から飛び降りようかーー。

その時、大急ぎで子供の頃よりずっと大柄にそしてハンサムになった智也が入って来た。

何かを叫んでいる。ゆっくりと口を動かす。

『も・う・だ・い・じょ・う・ぶ』

私は心の中で絶叫していた。

『終わりよ!!全てが!』

気付かない内に声が出ていたようだ。

『あ・い・し・て・る』

智也の言葉は一番知りたくない言葉だった。

私は智也の胸板に張り付いて、思いっきり叩いた。

「私、聴こえないの!ピアニスト終わってるの!智也のお嫁さんだって不合格なの!!」

智也が私を力強く抱き締めた。ダンディな香りがした。

しばらく智也は私を離さなかった。

智也が恭しく私に跪く。小鳥が病室から出て行った。

智也の手の中には小さな白い箱があった。中身を見せる。高級感漂う指輪が収まっていた。

智也は何も言わなかった。ただ、中学生時代のように熱烈なキスを求めて来た。

私は全てを失った訳ではない。


19歳の春のコンサートと同じピアノと向き合う。

照明は輝かしく、無音の世界でも空気をピリつかせていた。

ピアノの感触は同じだ。しかし、叩いても返って来るのは虚無だ。私には音が色に見えた。

「さあ、目玉の難聴のプリンセス、柳・ランス・愛佳と彼女の夫、杉浦智也の交響曲、とくとご覧あれ」

司会が場を盛り上げる。勿論、私には何を言っているのか計り知れない。

私は狂気地味た音色を奏でた。それはとても音楽と呼べなかった。しかし、人々は一斉に涙するのが分かった。観客達には私のピアノの音色が哀しみに包まれているのが分かるのだ。

終わり行く命の儚さを吐き出した。絶望とあいまみれる希望を吐き出した。この世の呪い全てを吐き出した。

タキシード姿の智也は、ヴァイオリンで私の奏でる音に俊敏に付いて来た。私の独りよがりな感傷を高貴な音楽に変えるのは紛れもない夫だ。

その瞬間は私は女王だった。音の女神だった。聴こえないのに、次の音を指が滑って振動させた。

20分程かけて私達のコンサートは終わる。人々は手を合わせては離してを繰り返す。拍手すらも、もぬけの殻だ。だが、それで良いと思った。

私にはもう時間は残されていないのだ。


脳の異常で少しずつ私はおかしくなって行った。退行したり、悟りを開いたり周りの人間が気味悪がるようになった。そんな時は智也が私を私専用のピアノの椅子に座るよう指示した。

智也がヴァイオリンの弦と弓を構える。私は朦朧とした意識の中で音楽を奏でる。

ガラス貼りの天井を見る。今夜は月が綺麗だ。気のせいか紅い気がした。

指が鍵盤を滑る。

智也の肩が震えているのが分かる。でもそれだけだ。彼が誰なのかも私は知らない。

私には聴こえない音色だけが触れられる距離にあった。

一晩ーー永遠に思える時間が過ぎ去った。

私の指輪を左薬指から外し、優しく肩に男が寄り添った。

「お疲れ様、愛佳」

その誰かは私の遺体を見て、目から涙を滴らせた。

私は鍵盤を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ