穏やかな川
朝の阿賀野川は、驚くほど穏やかだった。
霧が薄く漂い、川面はゆっくりと光を返す。昨日までの険しい流れが嘘のようで、船はほとんど押されることなく、素直に進んでいく。
津川を出る頃には、すでに何艘かの船とすれ違っていた。米俵を積んだ船。木材を載せた船。人を乗せた渡し。川が「道」になっていた。山の中にいたときには、意識したことがなかったことだ。
傷ついた船頭は津川で療養し、変わりに交代要員が乗り込んだ。もう一人の船員が代行として船頭になった。
櫂を操りながら、時折、向こう岸に声をかける。挨拶なのか、合図なのか、僕には判別がつかない。けれど、応じる声が返ってくる。完全に社会がある。ちゃんとした人の世界だった。
昨日の戦いが、少しずつ遠ざかっていくのがわかる。
榊原は、船縁に腰掛け、刀の手入れをしていた。血はもう落ちている。それでも、念入りだ。
「なあ満足」
唐突に、声をかけられる。
「昨日の立ち回り、かなり良かったと思うけど?」
「そう?」
「山に走り込んだとこ。あれ、普通はできない」
褒めているのか、分析しているのか、判別がつかない言い方だ。
「でもさ」
榊原は、刀を鞘に収める。
「やっぱ、迷ってたよな」
図星だった。
「……迷ってた」
「だよな」
それを責めるでもなく、笑う。
「俺は、迷わない方を選んだだけだ。別に慣れればいけるよ、まあ慣れろとは言わないけど」
それだけ言って、話は終わった。彼にとっては、それで十分なのだろう。
相原は、船の中央で、板に紙を広げて何かを書いている。昨日の戦闘の記録だろうか。
室田は、船頭代行と話し込んでいた。
「へえ、この辺りは浅くなるんすね」
「そうだ。だから、船足を落とす」
「なるほど……」
適当そうに見えて、ちゃんと聞いている。
瀬戸は、船の前方に座っていた。巫女装束の袖を整え、川の流れを見ている。ときどき、視線が水面に落ちる。治療のときとは違う、静かな顔だ。
僕は、船の後方に腰を下ろし、川岸を眺めていた。人の暮らしが見える。畑。家。小さな社。昨日は、矢が飛んできた両岸だが、少し離れれば、ただの森に戻っている。
世界というのは、人よりも切り替えが早い。人が死んでも、川は流れる。戦いがあっても、船は進む。それが、現実でもあり、ゲームでもある。
昨日の夜、瀬戸と話したことを思い出す。違うまま、同じ場所にいる。それは、簡単なようで、案外難しい。けれど、今の船は、それをそのまま体現していた。誰も同じ考えではない。でも、同じ川を下っている。
櫂の音が、一定のリズムを刻む。流れは、穏やかだ。だからこそ、考える余裕が生まれる。
僕は、バックパックに手を伸ばし、中身を確かめた。山で集めた素材。売れるもの。使えるもの。昨日までは、ただの荷物だった。今は、選択肢に見える。
この先、何を拾い、何を捨てるか。川は、静かに下流へ向かっている。人の世界の中を。
翌朝、野営地で目を覚ましたとき、空気の匂いが少し変わっているのに気づいた。
冷たいのは同じだ。けれど、山の水でも、土の湿り気でもない。
――塩だ。
船頭代行が、櫂を止めずに言う。
「そろそろだな。潮が混じってきてる」
川は、まだ川の形をしている。だが、押される感覚が薄い。流れがほどけている。
榊原が、周囲を見回して肩をすくめた。
「懐かしい匂いだな。多賀城の港と同じだ」
「塩釜と似てますね」
瀬戸も、自然にそう言った。彼女にとっては、珍しいものじゃないだろう。塩釜神社は、多賀城の外港でもあった。神と人と海が交わる場所で、たしか、そこが彼女の最初の配属先だったはずだ。この世界で、海を見るのが初めてなのは、僕くらいかもしれない。
相原が、淡々と補足する。
「でも、ここは港に出るんじゃなくて、川が終わる場所ですよ。少し違います」
その言葉が、妙にしっくりきた。
川幅は、目に見えて広がっている。岸が遠くなり、空が大きい。山に囲まれていた数日間とは、まるで別の世界だ。
「……同じ海でも、全然違うな」
僕がそう言うと、榊原がちらっとこちらを見た。
「そりゃそうだろ。ここまで川を下ってきたんだから」
「港から船に乗るのとは、別だよね」
瀬戸が、穏やかに続ける。
川は、積み重なってきたものを全部運んできた。人も、物も、祈りも、穢れも。それが、ここで一度、ほどける。
室田が、荷を確認しながら言った。
「物資は問題なし。潮風対策もしてあります」
僕はバックパックを背負い直す。この数日で、重さが増えた。素材だけじゃない。考えることが、増えた気がする。
川沿いの集落が増え、視線がはっきりとこちらを捉える。山の中とは違う、人の目。 ここからは、隠れて進む旅じゃない。
船頭代行が声を張り上げた。
「もうすぐ蒲原だ! 準備しとけ!」
川が、完全にほどけていく。水の色が変わり、匂いが変わり、音が変わる。
阿賀野川は、ここで終わる。――そして、日本海につながる。
瀬戸は、海の方角を見つめていた。慣れているはずなのに、少しだけ表情が引き締まっている。榊原は、肩の力を抜いたままだ。相原は、すでに何かを記録するように視線を動かしている。同じ景色を見ているのに、受け取り方は違う。
僕は、川の先を見つめた。山を越え、川を下った。次は、海だ。
潮風が、もう戻れない距離を知らせていた。




