阿賀野川へ漕ぎだす
川船は、思っていたよりずっと大きかった。
山で見かける筏や小舟とは違う。腹の広い船体で、中央がふくらみ、そこに木箱や俵がぎっしり積まれている。最も幅のある場所なら、横に三人――詰めれば四人、肩を並べて座れそうだ。長さもある。十歩ほど歩いて、ようやく船首に届く。
前と後ろに、漕ぎ手と船頭が一人ずついた。船首は、しゃがみ込んで水面を睨み、棒で川底を探っている。船尾の男は舵に手をかけ、流れに合わせて、ほんの少しずつ船の向きを調整していた。二人の息が合っていないと、この船はたぶん、簡単に座礁する。
僕たちは、その二人のあいだに座った。
中央の物資を挟むように、前に二人、後ろに三人。運ぶのは、米俵、干物、塩の袋。山で集めた毛皮や薬草、布に包まれた小さな仏像。写経した経文の箱もある。どれも、ただの荷ではない。濡らせないし、奪われても困る。
だから――というわけでもないが、船頭が、何気ない調子で言った。
「最近な、このあたり、よくない噂があってな」
水面から目を離さずに。
「川は穏やかだが、浅瀬と中州は厄介だ。流れが止まるところほど、人も寄ってくる」
人、という言い方が、妙に引っかかった。
「山賊、ですか」
相原が、さらりと聞き返す。紙片に何か書き留めながら。
「噂だ。だが、噂はだいたい、後から本当になる」
「またか」
室田が肩をすくめた。
「この手の噂、どこ行っても聞くっすよ」
「イベント来たな」
榊原は、少し声を弾ませて言った。
その温度差を、僕は黙って聞いていた。
船が動き出す。櫂の音。水を切る低い響き。川幅は広く、流れは穏やかだ。両岸には田畑が続き、ところどころに寺や小さな集落が見える。渡し場もある。人の生活が、川に沿って並んでいる。
山とは、まるで違う。山ならば、立ち止まれば戻れた。危なければ、横に逸れればよかった。だが川では、そうはいかない。流れに乗ったら、前に進むしかない。逃げ場は、水の中か、岸しかない。
瀬戸は、船の縁に手を置き、小さく祝詞を唱えていた。声はほとんど聞こえない。ただ、唇が動いているのがわかる。祈りは、船のためなのか、川のためなのか、それとも僕たちのためなのか。
昼のあいだは、何事もなかった。
船はゆっくりと進み、会津平野を抜けていく。川面は陽を反射し、風は穏やかだ。榊原と室田は、前後を入れ替わりながら座り、物資の様子を確かめていた。相原は、景色と人の配置を、淡々と記録している。
僕は、船の揺れを体で覚えようとしていた。足場。重心。何かあったとき、どこに動けるか。どこが死角になるか。そんなことばかり考えてしまう。
夕方、船は岸に寄せられた。
野営だ。川沿いの少し開けた場所。焚き火を起こし、簡単な食事をとる。川の音は、昼よりも大きく聞こえた。暗くなると、水はただの黒い流れになる。
「なあ」
船頭の一人が、火を見つめながら言った。
「今夜は交代で見張りを頼めるか」
誰も異議を唱えなかった。
噂は、ただの噂だ。そう思いたい。けれど、川の真ん中で止められたら、逃げ場はない。それは、誰もがわかっている。
瀬戸は火のそばで、膝を抱えて座っていた。昼の祈りとは違い、今は何もしていない。ただ、炎を見ている。
榊原は、刀の手入れをしている。楽しそうですらある。相原は、今日一日のことを、静かに書き留めていた。室田は、見張りの順番を確認しながら、あくびを噛み殺している。
僕は、川の音を聞いていた。
穏やかだ。だが、止まる場所がある。浅くなる場所がある。人が寄ってくる場所がある。
船は無事だ。けれど、流れ出した船は、もう行きつくとこまで行くしかない。
二日目の朝、船頭に、瀬戸が告げた。
「船に、結界を張らせてもらってもいいでしょうか」
「結界……ねえ」
怪訝そうな表情で船頭が言う。
「邪魔にはなりません。ただ、何かあったときに、災いを流す。避ける。そんなまじないのようなものだと思ってください」
「そりゃ、そうできるならありがたいが……」
言葉を濁す。どうも歯切れが悪い。
そこで、相原が口を挟む。
「別に、追加で料金を請求したりはしません。護衛の一環としての備えの一つです。そうよね、瀬戸さん?」
「ええ、その通りです」
「ああ、そういうことなら、ぜひともお願いしますわ」
こうして、瀬戸の結界が張られた船が出航する。
会津を抜けると少しして、阿賀野川の顔が突然変わった。
目で見て、すぐにわかる。川幅が、昨日よりも狭い。両岸が近く、流れが一気に締まっている。水の色も、少し濃い。深いところと浅いところの差がはっきりしてきた。
「来るぞ、ここから」
船首の船頭が、低く声を出す。
櫂が、水を叩く音が増えた。昨日は、流れに乗せるだけだった動きが、今日は違う。細かく、せわしない。舵を取る船尾の男も、ほとんど休みなく声を返している。
「右、浅いぞ」
「瀬だ、中央寄せろ」
「そこで流れを切るな!」
船は、きし、と音を立てた。腹の下を、水が速く抜けていく感触が、足裏から伝わってくる。
瀬が増えていた。
川底の石が、ところどころ白く見える。浅瀬を避けるため、船は蛇行する。物資が、わずかに揺れる。箱がぶつからないよう、室田が体で支えた。
「思ってたより、荒いっすね」
室田が言うと、榊原が即座に返す。
「この感じだと、ここじゃ来ないな」
「……来ない?」
相原が顔を上げる。
「山賊ですよ。ここで襲ったら、もらえるものも貰えない」
榊原は、川面を見ながら続けた。
「流れが速すぎる。船頭を落としたら、船ごと座礁か転覆だ。物資が沈んだら、割に合わない」
言い方が、あまりにも即物的だった。自分も状況判断はするが、榊原ほど上手くは言語化できない。
この世界では、人の命と物資が、同じ天秤に乗ることがある。榊原は、それをためらいなく口にする。良し悪しではない。ただ、価値基準が僕とは少し違う。
瀬戸は、船縁を掴み、揺れに耐えていた。昨日よりも表情が引き締まっている。祈りは、していない。ただ、目は川を追っている。
昼を過ぎても、緊張は解けなかった。
船頭たちの声は減らない。櫂を持つ腕に、疲れが見え始める。だが、ここで休むわけにはいかない。流れが速い分、止まる場所が少ない。
やがて、川は少しずつ落ち着きを取り戻した。
流れが緩み、岸が開ける。
ただ、それでも緊張は解けなかった。
瀬は少しずつ減っていったが、そのぶん川は長く、だらだらと続く区間に入った。流れは緩い。だが、決して楽ではない。水深が読みにくく、底が砂と石で入り混じっている。
「……今日は、ここまでだな」
船首の船頭が、そう言った。
前方に見えるのは、なだらかな川原。岸が低く、木立が近い。舟を寄せるには悪くないが、設備は何もない。人の気配も薄い。
「津川までは、まだ半日以上かかる。日暮れ前に無理すると、座礁する」
船尾の男も、同意するように頷いた。
舟を浅瀬に寄せ、慎重に物資をまとめる。今日は、ここで野営だ。
火を起こしながら、榊原が小さく笑った。
「ここ、ちょうどいいな」
「何が?」
「襲う側にとって、って意味で」
冗談のような口調だったが、誰も笑わなかった。
相原が、川の上流と下流を見比べる。
「設備も人もない。でも、流れは落ち着いてる。舟も止まってる」
「しかも、明日は早出だろ」
室田が肩をすくめる。
「船頭さんたち、夜明けと同時に出たいって顔してる」
つまり――動き出す瞬間がある。
火のそばで、瀬戸は静かに座っていた。祈りはしていない。ただ、周囲をよく見ている。川も、森も、人も。
僕は、焚き火の向こうを見つめながら考えていた。
津川という名前が、頭の中で重く響く。人が集まり、情報が交差する場所。ここを越えた、その先。夜が、ゆっくりと降りてきた。
川は穏やかだ。虫の声もする。対岸は、山桜が満開だった。それでも、空気のどこかに、張りつめた糸のようなものが残っている。
二日目は、何も起きなかった。だからこそ――明日の朝が、嫌な時間になる。
その予感だけが、はっきりと胸に残っていた。




