如蔵尼の庵
庵の中は、相変わらず静かだった。外の山の気配が嘘のように遮られ、低く、一定の調子で経が流れている。
瀬戸澄佳は、如蔵尼の前に座り、両手を膝の上で重ねた。
「……飽海嶽へ向かうことになりました」
言葉にすると、少しだけ覚悟が固まる気がした。
「山の神のお使い、ですね」
如蔵尼は、経を止め、ゆっくりと目を開いた。その視線は、問いでも評価でもなく、ただ事実を受け止めるものだった。
「はい。まだ、何が起きているのか、すべては分かりません。でも……行かねばならないとは思っています。私の役目だと」
如蔵尼は、小さく息を吐き、微笑んだ。
「そうでしょうね」
その一言に、私の胸が、わずかに緩む。
しばらく沈黙が流れたあと、如蔵尼は、ぽつりと語り出した。
「……あなた、私の名の由来を知っていますか」
「いえ……」
私は、首を振る。
「私は、もともと滝という名でした。どこにでもある、普通の名です」
如蔵尼は、自分の胸に手を当てる。
「若い頃に、大病をしました。もう助からないだろうと、皆に言われて……そのとき、ただ一心に、地蔵菩薩にすがったのです」
声は、淡々としていた。だが、そこに重みがあるのは、私にも分かった。
「不思議なことに、命はつながりました。それ以来、私は地蔵菩薩を崇め、経を唱え続けています」
私は、息をひそめて聞いていた。
「人々が、いつしか私を地蔵の如き者――如蔵と呼ぶようになりました」
如蔵尼は、少し困ったように笑う。
「恐れ多い話です。私は、救う側の人間ではない。ただ、救われた一人にすぎません」
その言葉が、私の胸に、深く沈んだ。
「でも……」
如蔵尼は、私をまっすぐに見た。
「それで救われる人も、いるようなのです。名があることで、祈れる人がいる。立ち上がれる人がいる」
静かに、しかし確かに。
「だから私は、ここにいるのだと思います。自分を救ってくれた地蔵菩薩のように、誰かの足元を、少しだけ照らせたらと」
その視線が、私に重なる。
「あなたも、同じですね」
はっとして顔を上げた。
「……私、ですか」
「ええ。山の神の巫女と呼ばれるのは、恐れ多いでしょう」
私の胸が、きゅっと締まる。
「でも、あなたは、自分にできることをしようとしている。それだけで、十分なのだと思います」
その言葉に、堪えていたものが、ふいに溢れた。
「……そんなふうに言ってもらえたの、初めてです」
声が、わずかに震える。如蔵尼は、何も言わず、ただ静かに頷いた。
しばらくして、私は涙を拭い、改めて口を開く。
「……それで、飽海嶽へ向かいます。日本海を北へ行く道です」
「阿賀野川を下るのですね」
如蔵尼は、すぐに理解した。
「その流域は、実質、慧日寺の影響下です。船の手配もできます」
私は、驚いて顔を上げる。
「そんな……」
「その代わり、と言っては何ですが」
如蔵尼は、文机に向かい、一通の手紙を書き始めた。筆運びは迷いがなく、すぐに書き終える。
「羽黒山に、寄ってくれませんか。こちらから行くなら、飽海嶽の少し手前。そこまで遠回りにはならないと思います」
差し出された手紙を、私は両手で受け取る。
「そこにある、ある品を受け取ってきてほしいのです」
「……品、ですか」
「ええ。父の形見です」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「そ、そんな大切なもの……私なんかがお預かりするのは、責任が重すぎます」
即座に、首を振る。如蔵尼は、くすりと笑った。
「大丈夫ですよ。たいしたものではありません」
「……でも」
「ただの、小さなものさしです」
私は、言葉を失った。
……ものさし?
あまりにも、普通の物で拍子抜けした。ただ、彼女にとっては大切な形見、思い出の品なのだろう。
「これを見せれば、向こうの方が出してくれるはずです」
如蔵尼は、静かに言った。
「あなたなら安心。そう思えたから、お願いしたのです」
私は、手紙を胸に抱いた。
「……必ず、お届けします」
その声には、もう迷いはなかった。
庵の外で、風が、ゆっくりと山を渡っていった。
明日も、二本投稿いたします。6時と16時です。
よろしくお願い致します。




