見方を変えれば世界も変わる
磐梯山の洞窟、僕はそこで目を覚ました。
瀬戸の庵を出てから、しばらく潜伏していた場所で、慧日寺での一件が終わった後も、僕はここを住処としていた。瀬戸の庵に居座るわけにもいかないし、麓の神社に宿を借りるのも違う。慧日寺は論外。となると、僕の居場所は、山の中にしかなかった。
ただ、水場にも近いし、瀬戸の庵とも遠くない。実は割と気に入っていて、寝床や簡易的な竈もつくった。布団ではないけれど、秘密基地みたいで気に入っている。
ログインのときは、やはりいつも違和感が現れる。
目を閉じて、開いた。それだけのはずなのに、感覚が繋がっている感じがする。ログインしたというより、一瞬だけ意識を落としただけのような気分だった。
足元は山の土。空気は冷たく、澄んでいる。前日まで走り回っていた磐梯の匂いが、そのまま続いている。
……もう九日目、か。
現実では一晩しか経っていない。それなのに、身体の奥では、何日も旅をしてきたような重みが残っていた。疲労ではない。筋肉も、息も、問題ない。ただ――時間だけが、現実とずれている。
現実の時計を思い出そうとして、やめた。今は、こちらの時間のほうが正しい気がした。胸の奥に意識を向ける。いつもなら、そこにあるはずの気配を探す。
……静かだ。
穢れは、いる。それはわかる。消えたわけじゃない。でも、騒がない。口も出さない。重さすら、ほとんど感じない。
嵐の前、ってやつなのだろうか。そんな気がすると、安心よりも、落ち着かない。暴れているほうが、まだ対処のしようがある。何も言ってこないというのは、逆に不気味だった。
一度、大きく息を吐く。
視線を落とすと、鷺沢が用意してくれた装備が、きちんと身についていた。バックパックの重さが、現実的だ。軽すぎもしないし、邪魔にもならない。
……だが、このセンスはどうにかならないものか。
今、僕が身に着けているのは、前回ログアウトする前に、鷺沢が用意してくれた新しい装備だった。
**
磐椅の境内で僕は自分の荷をほどいていた。中には、毛皮、骨、乾燥させた薬草。いつの間にか増えていた山の産物を、まとめて布に包んでいた。
「……ほんと、よく拾ってくるよね」
それを覗き込みながら、鷺沢里穂は感心とも呆れともつかない声を出した。
「狙って集めたわけじゃない。気づいたら、あった」
ほとんど記憶が圧縮されているみたいで、本当にほぼ覚えてないのである。
「そういうのを才能って言うんだよ」
彼女はそう言って、僕の荷から一つ、小さな薄い緑色の繭のようなものを指先でつまみ上げた。絹とは色が違う、が同じような光を含んだ質感。
「……これ、どこで拾ったのか覚えてる?」
「たぶん沢の上。岩陰に引っかかってた」
一瞬、鷺沢の目つきが変わった。
「それ、天蚕だよ」
「……蚕?」
「ただの蚕じゃない。野生の希少種。しかも質がいい」
彼女は繭を軽く転がしながら、にやりと笑う。
「量は少ないけどね。でも――」
僕を見る。
「少しは金になるものを持ってくるようになったじゃん」
その言い方が、妙にくすぐったかった。褒められた、というより、「見える場所が一段上がった」ような感覚だった。
「これ、装備に使える?」
「今回は無理。量が足りない」
即答だった。
「でも」
鷺沢は繭を布に戻し、続ける。
「次、ちゃんと集められたら――服、仕立てようか」
「……服?」
「そう。防御だけじゃなくて、動きやすさと隠密を両立させたやつ。満足くん向きだよ」
僕は、少し考えた。
「……そんなに価値があるのか」
「あるある。リアル換算したら、ちょっとした高級素材」
彼女は肩をすくめる。
「まあ今回は私が買い取るよ。仕入れの前金ってことで」
そう言って、代金代わりの札を差し出す。彼女との取引専用の札だ。僕は一瞬迷ってから、受け取った。
「ほかにもさ」
鷺沢は話題を切り替えるように言う。
「薬草、山菜、キノコ。山は素材の宝庫だよ。今回の騒動で分かったでしょ? ここ、慧日寺の修験者たちは別として、プレイヤーはまだ誰も本気で採集してない」
「……戦う場所だと思ってた」
「でしょ?」
彼女は笑う。
「でもね、世界って掘れるんだよ。鉱脈だってある。見つけたら、一気に大金持ち」
僕は、思わず周囲の山を見渡した。同じ景色なのに、さっきまでとは違って見える。
「……つまり」
「うん?」
「僕は今まで、見える範囲しか見てなかった」
「やっと気づいた?」
鷺沢は満足そうに頷いた。
「戦うだけがプレイじゃない。集める、作る、売る、残す。――その全部が、この世界の遊び方」
僕は、静かに息を吐いた。
美羽を追って、この世界に潜り込んだ。山に入り、戦い、逃げて、戻ってきた。
だが――この世界は、追うためだけの場所じゃない。
「次は」
鷺沢が言う。
「もっと面白いもの、拾ってきなよ」
僕は、小さく頷いた。
山は、まだ何も語らない。だが、語らなくても、与えてくるものがあることを、初めて知った気がしていた。
そして、後日それが届いたのは、昼前だった。
磐椅神社の境内、作業場に使われている納屋の前で、僕は名前を呼ばれた。振り向くと、鷺沢里穂がやけに満足そうな顔で立っている。
「はい、満足くん。完成品」
差し出されたのは、やや大きめの木箱と、もう一つ――布で包まれた何か。
「……二つあるけど」
「メインと、推しポイント」
嫌な予感しかしない。
まず木箱を開けると、中に収まっていたのは、ベスト状の上着だった。袖はない。代わりに肩から胸、背中にかけて、布と革を重ねた構造になっている。そして、大きめのフードが付いている。
色は濃い灰色ベースの迷彩柄。縁取りにだけ、夜の山みたいな深い青が入っている。
「……ベスト?」
「ベスト。動く人用」
手に取ると、驚くほど軽い。
「枝に引っかからない。音も立たない。内側、触ってみて」
言われるまま内側をなぞると、薄いが確かな補強層があった。
「防御、最低限。でも急所だけ守る設計」
なるほど、としか言えない。
次に出てきたのは、指ぬきのレザーグローブ。
「……これは」
「いるでしょ。崖、縄、刃物、素材採取」
確かにいる。だが、問題はそこじゃない。革に、さりげなく刻まれた模様。よく見ると、山の等高線を模した文様になっている。
「この文様に、何か効果があったり……する?」
「趣味」
即答だった。
さらに、脚衣。膝から下にかけて、軽量の革当てが仕込まれている。
「転ぶ前提、痛くないようにした」
「ひどいな、そんな転ばないけど」
「ログ見た結果です」
証拠を示されると、主観論では反論できない。そして最後に、鷺沢は布包みのほうを差し出した。
「で、これ」
包みを解くと、中から出てきたのは――
「……バックパック?」
「ただのじゃないよ」
背負ってみると、背中に気持ちよく密着する。重心が高すぎず、低すぎない。
「山歩き用。中、見て」
開けると、内部には細かな収納ポケットがたくさんつけられている。素材用、薬草用、石用、常備品などで、分けられる設計だ。
「拾う人専用設計。あと、外から中身が分かりにくい」
「……」
「で、ここ」
背中側、内ポケット。
「天蚕、次からはここに入れて」
すでに想定済みだったようだ。
ここで終わりなら、まだよかった。
鷺沢は、最後にもう一つ、小さな袋を取り出す。
「これは任意」
「……何」
「フェイスペイント」
一瞬、言葉を失った。
「……いる?」
「隠密時の輪郭ぼかし。あと、かっこいい」
確認すると一応、隠密補正:微増の表示ログが出る。ただ説明の後半が彼女の本音だろう。
「色は?」
「夜用と、森用。塗らなくてもいいけど、塗った方が映える」
映える、じゃない。こちとら隠密が専門だ。映えてどうする。
全部装備して、鏡代わりの金属板に映る自分を見る。
――知らない人間がいた。
でも、コンセプトは一貫している。そして不思議と、この世界にどこか馴染んでいる。
「……なんか、厨二だな」
思わず漏らす。鷺沢は、にやりと笑った。
「でしょ。でもさ」
一歩近づいて、低い声で言う。
「こういう格好、現実じゃなかなかできないじゃん」
それも事実だった。僕は、バックパックのベルトを締め直す。
「……天蚕、ちゃんと集めるよ」
「うん」
鷺沢は、納得したように頷いた。
「集めたら、次は服、仕立てよう。完全オーダーメイドで」
山は、静かだった。
**
鏡代わりに、水面を覗く。
「やっぱり厨二病だ……」
ただ、映っている自分は、前より少しだけ旅の人間に見えた。見方を変えれば、恰好悪くもない、……はずだ。
……で、今日は。
頭の中で、やることを並べる。
喜多方に向かう。情報を集める。足はもう、そちらを向いている。
色々と目処が立ったら瀬戸とも合流する予定だ。彼女は北に行くと言っていた。一緒に行かないと、怒られる。すでにそういう流れはできていて、僕はその流れの中に、自分を置くとはっきり明言した。
「……行くか」
独り言は、山に吸われて消えた。僕は、荷を背負い直し、歩き出した。
九日目は、静かに始まった。




