磐梯山の温泉
慧日寺から麓の道を少し東に進んだ場所に、その湯はあった。地元の人々が使う湯治場よりも少し登った場所、寺専用の湯殿として使われている露天温泉である。鷺沢里穂は、その情報を聞きつけると、いい機会だと思い立ち、三好千穂と瀬戸澄佳を誘った。
普段は修験者たちが使う場所だけあって、飾り気はない。石。木。そして湯気。それだけで、脱衣場すらない。ただ、獣除けの結界は貼られているらしい。
「……いいところだね、お湯なんて久しぶり」
巫女服に身を包んだ瀬戸さんは、素直にその喜びを口にする。
「修司、ちゃんと見張っててよ。あと覗いたら殺すから、社会的にも、物理的にも」
千沙が、階段の下を見下ろしながら、浴場の入り口に立つ国分修司に向かって、念を押す。
「馬鹿にするな。そんなこと、わかっている」
修司くんは振り向かずに、答える。
私は、二人に少し遅れて、階段を上り終えると、二人に大きな風呂敷を手渡した。
「これ服入れに使って、あと滑りやすいみたいだから足元、気を付けてね」
そう告げると、二人から半歩分だけ、距離を取る。
瀬戸さんは白い。肌がとにかく綺麗だ。そして思っていた以上に細くて、思っていた以上に凶悪だった。胸に巻かれていたさらしをほどいたとき、その恐ろしい双丘の封印が解かれたとき、思わず声が出そうになったほどだ。――でかい、と。
千沙は、また違ったベクトルでいい体である。健康オタクだけあって、健康的な肌、だが顔のメイクだけは鉄壁、温泉でも絶対に落とさない。肌荒れは大丈夫なのか少し心配になるが、そこに矜持を感じる。そしてギャルらしい、いかにもおじさんが好きそうな、めり張りのあるボディ。腹筋が薄っすら割れているのに、千沙の努力が見える。
そして私。ふむ、どうみてもたるんでいる、二人と並んだらぽっちゃり体系と言われても仕方ない。いや、出ているところはちゃんとでているのだ。しかし、お腹にも少しそれがでている。最近というか、ここ数年の悩みだが、それを解消しようともしていない。仕方ないとあきらめているのである。
「ぶうふわぁぁあ、……山の神さまありがとう、いい湯だなあ」
私は、おじさんみたいな声を上げ、湯船に浸った。
そんな私を、千沙は苦笑いしながら見ている。
「でも本当に気持ちいい、私からもちゃんと感謝を伝えておくね」
瀬戸さんが、丁寧に賭け湯をしながらそう口にした後、私たち三人は少し離れた場所で、それぞれお湯を堪能する。
湯の流れる音だけが、湯煙に重なっていた。肩の力は抜けているのに、どこか張りつめたまま。湯気が、三人のあいだを曖昧にする。それからしばらく、誰も、何も、口にしなかった。
最初に口を開いたのは、千沙だった。
「……あのときのこと」
瀬戸は、視線を上げない。
「言い訳はしないわ。あれは、指示はあったけど、それに従ったのは私の判断」
千沙の声は、落ち着いている。だからこそ、軽くはない。
「楽になる方法を選んだ。あなたを……手段にした」
瀬戸さんは、千沙を見ない。少しだけ間があって、静かに言う。
「……その指示、逆らうのは勇気がいることなんでしょうね」
責める調子ではない。でも、受け入れたわけでもない。私は、そのやりとりを、値踏みするように眺めていた。
――仲直り、ではないな。それでも、断ち切れているわけでもない。
千沙は一息ついて、続けた。
「せめて……お詫びがしたい」
湯の縁に、薬包を置く。濃紺色の深い粉末。
「巫女装束に使えば、穢れへの強度が上がるはず、使ってほしい」
瀬戸は顔を上げ、そして少し考えてから、頷いた。
「……それでいいです」
私は、思わず口を挟む。
「その付与って結構、難しいよ。染色に混ぜる感じだろうけど、巫女服だと白が基本。色が付くのはまずいよね」
その指摘に、千沙の表情が沈むのがわかった。けど、私の話は終わっていない。
「ただ、私の伝手でなんとかしちゃるよ。専門の職人は何人か知ってる、多分できるはずだよ」
「ありがと、助かる」
千沙は、私を見てようやく笑った。
「助かります」
瀬戸さんも、こちらを見て礼を告げる。
「なになに、気にしないで。まあ、みんなには悪いけど、私、今回なにもしてないし。でも、いいもの見せてもらっちゃったからね」
あの、夜、慧日寺の空に浮かんだ光景は、見ていた私になにかを植え付けた。
そして思ったのだ。
この二人、
――「推せる」と。
だから、商売抜きで、二人には私もお礼をしたいと考えていたのである。
「ついでだから、装備の新調しようよ。格安でやってあげるよ、二人とも」
私がそういうと、千沙が立ち上がる。
「マジで、いいの?」
違う、違う、そうじゃない。二人とは瀬戸さんと満足くんのつもりだった。しかし、今ここでそれを告げるのは酷である。私もこういうときは空気を読む。
「頑張ったからね、千沙も。みんなの分、私に任せてよ。恒一くんと直人くんは私が用意するのよりもっといい装備もらえるだろうけど……、まあ、修司くんのもついでに、やってあげるか」
「ありがとうございます、鷺沢さん」
うう、瀬戸さんの笑顔が染みる。その一言で、報われる。そして、その素直さもいい。甘い言葉には裏があるのは商売人の基本。今回の取引は、私にさらなる楽しみを生み出してくれるのである。
二人に、どんなデザインの装備を着せるか。その決定権はすでに私の手の内にあった。それを妄想するだけで、いろいろと捗るというものである。本人の希望もあるだろうが、それを踏まえつつ、基本は私の思うがまま。その絶対的な決定権を、私は今握ったのだった。
春、とはいっても、夕方の山気は肌に冷たい。湯船を出るとき、私は、ふと足を止めた。岩の影。湯の湿気。人一人分、音の抜けた場所。
「装備の希望、あったら言ってね」
なんとなく手ぬぐいで体を隠しながら、一人呟いた。そして、それ以上、何も言わずに温泉を後にした。
ここに来る少し前に、この温泉の存在を教えてあげた隠密スキルが得意な、もう一人の「推し」。もしかしたら彼にも、その声は届いたかもしれない。
はじまりの章は、ここで一区切りとなります。
次章からは登場人物が増えて舞台も広がり、物語もより大きな流れへと進みます。
三月中旬頃より、毎日更新で再開予定です。詳しい再開日時は、改めて活動報告でさせていただきます。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。




