選ぶということ
山は、まだ息を荒くしていた。怒りが収まったわけではない。ただ、爆ぜるのを思いとどまっている。
それが、瀬戸澄佳には分かった。
満足は、少し離れたところで横たわっている。呼吸はある。けれど、安らかではない。彼の体には、外殻のように固まった影が、今もしっかりとへばりついている。
――異形。
あのとき見た姿が、何度も頭に浮かぶ。人の形をしていながら、人ではなかった。正直に言えば、怖かった。助けられた瞬間も、連れ去られた瞬間も、ずっと。
近衛に捕らえられても、なお対等に向き合おうとした自分。あの判断が正しかったのか、今も分からない。けれど、彼の意をくんで、「守られる」ふりをしていたら、私は――私でなくなっていた。
……だから。
だから、私はここにいる。
「出てきてください」
声に出したつもりはなかった。でも、山は応えた。
低く、深く。男と女が重なったような、二重の声。
『久しいな』
『戻ったか』
姿は見えない。けれど、確かにそこにいる。この山の神。磐梯山の神。夫婦神。この山そのものだ。
私は、膝をついた。
「……申し訳ありません」
『お前のことではない』
声は、私ではなく、彼のほうを向いていた。
『穢れを、連れてきたな』
胸が、締めつけられる。
「……はい」
否定しない。否定できない。
『責めてはいない』
山の気配が、少しだけ、和らぐ。
『お前には、そいつの穢れを祓い、流す力がある』
息を、呑んだ。
「……私に?」
『最初から、備わっていた』
『だが、まだ弱い』
『『だから、力を貸してやろう』』
その瞬間、空気が震えた。そして、私の身体の奥で、何かが開く。熱ではない。光でもない。流れだった。
川から流れた水が、大きな湖へ、そして最後には海に注がれる。そんな感覚。
「……消せる、のですか」
私が口にした問いは、切実だった。穢れに飲まれたままであれば、帰ってこられなくなる。その可能性はかつてないほど高まっていた。私は、そう問いながらも、その答えを効くのが、怖くて仕方なかった。
『消せはしない』
はっきりと、告げられる。ただ、そこに絶望的な雰囲気はなかった。
『そいつには、これからも穢れが溜まり続ける』
『人を斬る』
『獣を狩る』
『怒る』
『抗う』
『生きる限り、避けられぬ』
私には、神が何を伝えたいのか、もうわかっていた。
「……それでも、……流すことは?」
『できる』
『だが、それはお前が引き受けるということだ』
『祓いとは、捨てることではない』
『通すことだ。流すことだ』
胸が、重くなる。
つまり、彼が背負う穢れは、私を通って、山を流れ、海原へと至る。
磐梯山から流れ出た水は、猪苗代湖に注ぎ、それは日本海にそそぐ。それは、一時的な力でも、奇跡でもない。いつも、そして絶え間なく起きている、ただの現象だった。
「……私を通せば、流せるということですね」
山は、答えない。答えないことが、答えだった。
私は、倒れている彼を見る。眠っているようで、眠っていない。あの人は、これからも背負い込む。いろいろなものを。そして、ときに傷つけ、傷つき、誰かが当たり前だと思っていた何かを、壊し続ける。そして、その代償として、自分も壊れていく。それを、私は知ってしまった。
……それでも。
それでも、私は彼から目を逸らしたくなかった。そして彼のそんな意志を、選択を信じていた。あのとき、鬼のような姿で、私の腕を掴んだときも。一度も、私を傷つけなかった。乱暴だった。強引だった。でも、私は壊されなかった。
「……やります」
声が、自然に出た。
「私が、彼の、罪と穢れを、選びます」
山が、低く鳴る。
『よい』
私は、満足のそばに膝をつく。
そして彼の手を取り、自分の胸に当てる。
教わった作法などない。ただ、流す。それだけを思った。私の中を通って、それが山から湧出で、川へ流れる。自然の理へと、戻す。
影が伸び、私の体に巻き付いてくる。穢れが、重く、冷たく、絡みつきながら、中にまで流れ込んでくる。苦しさはある。でも、耐えられないほどじゃない。これが、彼が背負っていた、抱えていた、穢れであり罪、その重みだと思うと、それに触れられることは嫌ではなかった。
そして満足の呼吸が、少しずつ、整っていく。影が、柔らかくなり、次第に薄くなる。そして輪郭が、人に戻る。
「……っ」
彼が、小さく息を吸った。
私は、一瞬だけ目を閉じて、そして思った。
……私は、……もう、守られる側じゃない。
私は選んだ。逃げることも、預けることも、できたかもしれないけど、私が選んだのは引き受けることだった。




