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平安京エイリアンズ  作者: 岬口大鴉
【八日目】

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境界の崩壊

 結界の向こうは、静かすぎた。

 音が遮断されているわけじゃない。意図的に、抑えられている。結界は、外からの穢れを跳ね返し、内なる領域を囲い込む壁のようだった。

 

 だからこそ――聞こえた音は、異常だった。


「……やめ……っ」


 かすれた声。押し殺そうとして、それでも漏れた声だった。

 その声を感じ取ったとき、確かに僕の中で、何かが、音を立てて切れた。


「……おい」


 声が、低く落ちる。

 藤巻も、同時に異変に気づいた。そしてその内心が、顔に出る。


(……馬鹿が。本当に、頭に血が上ってやがる)


 藤巻は、こちらを見るが、こちらを見た瞬間、その表情は驚愕に変わる。

 僕の体から伸びる影が増えている。足元だけじゃない。壁に。柱に。結界そのものに。張り付くように、飲み込むように広がった。

 また聞こえる。はっきりとした悲鳴ではない。助けを求める声でもない。抵抗する音だった。押し殺した呼吸。衣擦れの音。必死に距離を取ろうとする気配。


 もう充分だった。僕の中で、何かが、完全に壊れるのには……。


**


 影が、足元から噴き上がる。輪郭が、人の形を保てなくなる。視界が、歪む。音が、遅れて届く。

藤巻が何か叫んだ。国分が前に出ようとした。

 だが――近づけない。そこにいるものは、もう「人」ではなかった。

 

 影が、結界に突っ込んだ。術式が抵抗する。接触した箇所が激しく輝く。


 遮断。抑制。封止。


 少しの間、均衡を保っていたが、影が徐々に質量を持つと、それが崩れていく。はじめは気体、それが徐々に液体化していき、最後には完全な個体となった。そして、影は外側から、世界そのものを歪め、結界を押し潰す。


 結界が、悲鳴を上げる。

 音はない。だが、空間が裂けた。


 次の瞬間、部屋の中にいた。

 瀬戸に覆いかぶさっていた近衛が、振り向いた。硬質化した影を身にまとった、異形の者の姿がそこにあった。

 そして、次の瞬間、顔が吹き飛ぶ。


 一撃。理屈も、言葉も、一切挟まらない。


 床に叩きつけられ、立ち上がろうとした瞬間、また殴られる。容赦はない。理屈もない。迷い込んだ羽虫を叩き潰すような、ただの排除。プライドも、判断も、好意も、意図も、すべて関係なく。暴力だけが近衛を襲う。


「……っ!」


 瀬戸の声が、かすかに上がる。すると影は、そちらに向いた。

 

 一瞬。その一瞬で変わった。


 近衛は、もう視界に入らない。そして瀬戸の拘束具が、影に引き裂かれる。

 影は、彼女の腕を掴んだ。強引だ。優しくなどない。だが確実に、腕に抱きかかえる。瀬戸が、何か言おうとしたが、それは声にならなかった。


 次の瞬間、跳んでいた。屋根を越え、伽藍を越え、人の領域を越える。

 そして、その影は月明りの中、――夜の山へと消えていった。


 誰も、追えなかった。

 

 藤巻は、呆然と立ち尽くしていた。

 国分は、力なく膝をついた。

 近衛は意識を朦朧とさせながら、自らの敗北に沈んでいた。


 そして、少し離れた高所で、その一部始終を見ていた者が、小さく息を弾ませていた。


「……ふふ」


 鷺沢里穂は、夜風に髪を揺らしながら、楽しそうに笑った。


「まるで――」


 目を細める。


「おとぎ話の鬼が、お姫様をさらうみたい」


 その目は、恐怖ではなく、純粋な興味と歓喜に満ちていた。


「いいわねぇ、物語が、ちゃんと転がり始めた」


 遠くで、山が、低く鳴いた。

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