瀬戸澄佳の感情
夏休み直前の研究棟は、どこか落ち着きがなかった。学生たちは浮き足立ち、廊下には、まだ決まっていない予定の話ばかりが転がっている。
その中で、私は一人、静かに腹を立てていた。理由は、分かっている。分かっているからこそ、余計に始末が悪い。
本日は春期の最終週、神話学の講義では今期の優秀課題作品が配られた。100名ほど履修者がいる中で、選ばれたのは3作品。私が書いた『神話における巫女・時代における役割の変化』はその中に入っていた。久世先生に自分の努力を認めてもらえたことは素直に嬉しかった。
もう一作は、近衛くんの『藤原鎌足論』。参考文献の量が圧倒的で、あらゆる研究情報を網羅したうえで、それぞれの論説を分析し、まとめていく丁寧なものだった。ただ、目新しさがあったかといえば、知っていることばかりだった気もする。
問題は、最後の一本のレポートだ。私がこんなにも苛立っているのはそれが原因であった。
まず、内容そのものというより、序盤はAIに丸写しみたいな、あの書き方がどうしても気に入らなかった。しかし、後半の仮説展開が刺さってくる。綱渡りのような論の展開、根拠が曖昧で国家史観への距離感も不用意。なのに、久世先生は評価した。
それが全体の半分くらいを占めている。五割。
残りの感情は、もっと細かく割れる。一割は、嫉妬だ。それも、彼自身ではなく、久世先生に評価されているという一点への。
私は、久世先生を尊敬している。日本の神話学という分野で、女性でありながら、この年齢で、あの立場まで行った人を、軽んじる理由がない。だからこそ、彼女が彼を見たことが、少しだけ、悔しかった。
さらに一割は、好奇心。正直に言えば、彼の言葉には、引っかかるものがあった。「そういう見方も、できるのか」そう思ってしまった自分が、また癪だった。
もう一割は、自己嫌悪に近い。彼のレポートは、私の考え方を、安全すぎると指摘しているように感じられた。
真面目。保守的。正統――。
それは間違いではない。でも、それだけでいいのか、と。
次の一割は、「成長したい」と思っている自分への苛立ち。
変わりたい。一皮むけたい。そう思っているくせに、結局は枠から出ない。その矛盾を、彼のレポートに見透かされたように勝手に思ってしまっている。
そして、最後の一割。言葉にできない、ただのモヤモヤ。整理できない感情が、私の底に沈んでいる。
この気持ちを、久世先生にぶつけてみようと、彼女の講師室まで来た。ノックしようと、扉に腕を近づけたとき、扉のガラス部分から部屋の中が見えた。そこでは先生と誰かが話をしていた。
――なんで彼が?
素直にそう思ったが、1分も経たずして、彼は部屋を出てきた。扉の前で、目を閉じ、大きくため息をつく。お説教でもされたのだろうか。先生だって、彼のレポートがAIに書かせたものだとわかっているはずだ。
こちらに気付かず、背を向け、廊下を力なく歩いていく後姿。それを見て、きっと、そうに違いないと確信して、講師室の扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ると、久世先生がなんとも気の抜けた表情をして出迎えてくれた。きっと、彼を叱るのに気疲れしたのだろう。他人を注意するというのは疲れるのだ。それは私もよくわかる。
「彼、ため息ついていましたよ。お説教ですか?」
「そうそう、ああいうレポート出されちゃうとね。でも、これも仕事だから」
そういって、久世先生もため息をつく。お互いにため息をつくくらいならば、放っておけばいい。しかし、彼女はそうしない。どうでもいい関係であればその通りであるが、そこはちゃんとする先生の姿勢が私には心地いい。
「でも、だからといって先生が、それを晒し者にするとは思いませんでした」
私が、そんな風にいうと、久世先生は少し驚いた顔をする。
「いや、そうか……。そう受け取られちゃったか……。そりゃ満足に悪いことをしたな」
この答えは、今度は私にとって意外だった。
「そうでしたか……。違うんですね」
「いや、お説教はしたけどね、もちろん。ただ、いいところも多かった。瀬戸さんは、彼のレポートは面白くなかった?」
そう真正面から先生に問われると、私のちっぽけなプライドなど一瞬で砕け散る。そして、素直に白状することになる。
「AIに書かせるのはズルいと思いましたけど、彼の仮説は……刺さりました」
悔しいが、認めるしかない。ただ、そう答えると、久世先生の表情が少し明るくなった気がした。
「まあ、今ぐらいの年齢の頃は色々と迷うし、間違えるものだよ。でも光るものはちゃんと認めてあげるのが私たちの役割だ。私も君たちの頃にはそうしてもらったよ」
「……はい」
「自信を持っていい、もちろん瀬戸さんのレポートのほうが当然評価は上だよ。ズルもしてない、立派なものだった。君と同じ年のとき私が同じレベルで書けていたか怪しいものだ、そのくらい良かったよ」
先生にそう言ってもらえると、現金なもので、私の気分は瞬間で明るいものに変わる。
「それに、彼にはちゃんとペナルティも与えた。私も楽単の先生とは思われたくないしね」
流石、しっかりしている。先生は、こういう要所をしっかりしめる。そういった部分も尊敬できる先生だ。
「追加レポート?、それとも書き直しとかですか?」
「いや、ちょっとした頼み事をね。私が関わっているプロジェクトを手伝ってもらおうかと思って。彼なら面白いデータがとれそうだし」
――先生のお手伝いに、彼が選ばれた。私は声もかけてもらえてないのに?
そう思い立つと、私のちっぽけなプライドが、また復活する。そして好奇心があふれてくる。
――なんで彼だけ? 先生のプロジェクト? 面白そう。私もお手伝いしたい。
「――あの」
気づけば、私は久世先生の前に立っていた。
「私も、参加したいです」
声は、我ながら落ち着いていた。理由を問われても、学業的な関心でも、どうとでも説明はつく。
でも本当は、対抗心と好奇心だった。
久世先生は、半ば呆れた顔で、しかし、少し嬉しそうに、「仕方ないなあ」とつぶやくと、タブレットのモニタを私に見せながら、そのお手伝いについて説明をはじめてくれた。
そんな最中のことだった。
「それ、面白そうですね」
軽い声が割り込む。
私たちが講師室の扉に顔を向けると、近衛恒一くんが立っていた。その後ろには彼の友人たちが、扉から首だけのぞかせている。
近衛くんは、いつも通り余裕のある笑み。人の視線を集める立ち方。
「瀬戸さんが行くなら、俺も行こうかな」
彼の友人たちが、「マジで?」「いいじゃん」と騒ぎ出す。
ああ、と私は内心で思った。近衛くんたちのグループに、春期の打ち上げに誘われていたのだった。特段、彼らと親しくしているわけではないのだけど、1年生のときの初期クラスが同じだった縁で、彼らにはよくこうした遊びに誘われるのだ。
しかし、なんと間の悪いことか。久世先生のプロジェクトが、彼らの遊び場になってしまうかもしれない。
私は、それが申し訳なく、先生に恐る恐る目を向けると、久世先生は一瞬だけ眉を寄せたが、私の視線に気づくと、それは作り笑いに変わった。
人数が増えれば、管理が面倒になる。しかも、近衛恒一くんの家は名家だ。無視できないだろうが、面倒ごとにもなりかねない。一方、もしかしたら予算が増えるとかプラスなこともあるかもしれない。
きっと先生の中では、そんな利害の調整が急スピードでされたのだろう。
「……枠は、調整します」
久世先生は、そう言った。
「じゃあ、ちゃんと説明するから、みんな入りなさい。あとちゃんと鍵は閉めてね」
いつも通りの明るい声で、そう告げた。そして、「――鍵、閉めなかったのは私だ」と思うと、また少しだけ落ち込むのだった。
その夜。自室で横になりながら、私は今日のことを思い返していた。
なんだか、ひどく感情が揺さぶられた一日だった。
嬉しかったり、悔しかったり、腹が立ったり、動揺したり……。
ただ、こんなにも色々と感じたのはいつ以来だろうか。
なぜ、参加したのか。答えは一つではない。
でも、はっきりしていることがある。
彼が、行く世界。そして、私も、そこへ行く。近衛くんたちもなぜか来る。理由は違っても、同じ場所に立つ。それだけは、もう決まっていた。




