まだ名のない決意
風が、境内の端を抜けていく。杉の葉が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
……落ち着け。
瀬戸澄佳は、胸の前で手を組む。指先が、わずかに震えている。
慧日寺に来てから、時間の感覚が曖昧だ。封印が強められ、山は静まった――そう、皆は言う。けれど。……静か、すぎる。あの庵で感じていた、山の呼吸が、ここにはない。抑え込まれている。
それが、山にとって良いことなのか、分からない。
「瀬戸さん」
背後から、軽い声がした。振り向くと、鷺沢里穂が立っている。相変わらず、どこか楽しそうな顔。
「……はい」
私は、一瞬だけ姿勢を正す。
「難しい顔してるね」
「……考え事を」
「分かる分かる」
鷺沢は、あっさり頷いた。
「今の状況、誰が何を考えても、正解なさそうだもん」
私は、何も言えなかった。
……正解。その言葉が、胸に引っかかる。
「ねえ」
鷺沢は、本当に雑談みたいな調子で続ける。
「昔さ、この山で、巫女さんが――」
意識が、一瞬、研ぎ澄まされる。
「……自分から残ったって話、聞いたことある?」
心臓が、小さく跳ねた。
「……残った、ですか」
「うん。逃げなかった、っていうか」
鷺沢は、深い意味もなさそうに笑う。
「人柱とか、そういう重たい話じゃなくてね。私がここにいれば、誰も困らないでしょみたいな」
私は、言葉を探す。
「……それは、本当の話なんですか」
「さあ?」
鷺沢は、肩をすくめた。
「あくまでも噂話。というか伝承なのかな。歴史っぽいやつ」
そんな伝承、逸話については、今まで聞いたことがなかった。ただ、人柱というのは確かに多くあったらしい。神話にも逸話にも、記録にもたくさん残っている。それで、誰かが救えたのかはわからないけど、そういう風習、考え方があったのは確かだろう。
「でもさ」
一拍置いて、鷺沢は続ける。
「そういう選択、昔はできる人も、いたんだなって思って。まあ私の中にはない価値観だから、少し驚いたというか、考えさせられちゃった」
それだけ言って、鷺沢は手を振り、去っていった。そして、私は一人、残された。
……できる人。
そういったときの鷺沢の笑顔が、残像として瞼に浮かぶ。少し軽い言い方だったけど、同時にとても重要なことを示唆してくれたようにも感じる。
その言葉が、頭の中で反芻される。できる。できない。誰が? 私が?
……違う。
そんな簡単な話じゃない。分かっている。これは、誰かに求められている選択じゃない。命令でも、強制でもない。望まれてもいない。だからこそ――私が今できることはないはず。
……逃げても、いい。それは人の権利、自由。
山は、その神も、私に直接、何も言っていない。まだ、神託はない。だから――私は、関係していない。事件の中心にはつながっていない、そのはずなのに……。
……関係、ないわけ、ない。
封印が強められ、怒りが溜まり、誰かが傷つく未来。それを、私は見ているだけで、いいのか。もし、私が、山の神にすべてを委ねれば、満足くんも、近衛くんも、そしてここに暮らす人たちも、すべて救えるならば、私は喜んでそうするべきではないだろうか。
そこまで考えて、その自分の思考経路に驚く。
……違う。
それは、自分を大事にしない考え方だ。自己犠牲で誰かを救おうなんて間違っている。傲慢だ。たとえそれがいい結果になったとしても、犠牲の上に救われた人の気持ちを無視している。それも理屈では、分かっている。ただ、それでも……。
……誰も、正解を教えてくれない。
近衛も、修験者も。山の神も。皆、自分の正しさを守っている。
じゃあ、私は、私の正しさを選ぶしか、ない。
私は、目を閉じた。自分が、何を選ぶのか。それを、考えてしまったこと自体が――すでに、一歩、踏み出している証だった。




