慧日寺の庵
慧日寺の境内から、少し外れた場所に、その庵はあった。瓦もなく茅葺で、伽藍のような壮麗さもない。それでも、妙に背筋の伸びる場所だった。
瀬戸澄佳は、気づいたときにはそこに立っていた。
……ここだけ、音が違う。
山のざわめきとも、僧たちの読経とも違う。低く、しかしよく通る声。経だ。
扉は、半ば開いていた。中にいるのは、尼が一人。年の頃は、三十前後だろうか。僧頭巾の脇から短い髪がわずかに覗いている。綺麗な黒髪。艶やかに光っている。
「……失礼します」
私が声をかけると、尼は経を止め、ゆっくりと振り返った。
「お入りなさい」
声が、澄んでいる。それだけで、胸の奥の緊張が、少しほどけた。
庵の中は質素だった。仏像と、簡素な机。香の匂い。
「……あなたは」
尼が、私を見る。
「巫女、ですね」
こちらに来てから、私は装束を身にまとっていない。にも関わらず、断定だった。
「……はい」
「新しい方」
それも、疑問ではない。私は、なぜか笑ってしまった。
「分かりますか」
「分かります」
尼は微笑む。
「ここに、まだ慣れていない」
その言葉に、私の胸が、きゅっと縮んだ。
……何も、隠せてない。
「私も同じ、この寺に、身を寄せているだけの尼です」
私は、一瞬、迷ってから、口を開いた。
「……山が、怒っています」
尼は、頷いた。
「ええ」
「封印が、強められました」
「ええ」
「……それでも、怒りが、増しています」
そこで初めて、尼は、少しだけ目を伏せた。
「それは、そうでしょう」
静かな声。
「縛られて、喜ぶ者はおりません。まして、神が人に縛られるなどと」
私は、思わず唇を噛む。
「でも……人の被害を、出すわけには……」
「ええ」
尼は、瀬戸の言葉を遮らない。
「だから、あなたは、ここに来た」
その言葉に、私は、何も言えなくなる。
……どうすれば、いいのか。
その問いが、そのまま浮かぶ。
尼は、少し間を置いてから、語り始めた。
「私の父は」
私は、顔を上げる。
「かつて、中央に、朝廷に刃向かいました」
その語り口は、淡々としていた。
「この国の理に、従わなかった。神に、寄りすぎた。結果、多くを失いました」
私は、息を呑む。
「正しかったか、間違っていたか」
尼は、首を振った。
「私には、分かりません。ただ…」
視線が、まっすぐに向けられる。
「父は、選びました。逃げなかった。誰かに、選ばされたのではなく、自分が新しい国を建てる。その道を自身で選んで、そして散っていきました」
その言葉が、私の胸に、深く沈む。
「あなたも」
尼は、静かに言う。
「いずれ、選ぶことになります。巫女として、守られるか。人として、踏み出すか」
答えを、求めてはいけない。
「……私は」
声が震えるのを、止められなかった。
「まだ、分かりません」
尼は、微笑んだ。
「それで、よいのです。分からぬまま、立つのが、最初の一歩です」
外で、風が動いた。遠くで、山が、低く鳴る。
尼は、目を閉じた。
「……山が、あなたに、語りかけるでしょう。それは、きっと、もうすぐです」
私は、その言葉を胸に刻む。
……私は、何を、選ぶ。
答えは、まだ出ない。だが、選ばされるだけの存在ではないと、初めて、思えた。




