山の神との交渉
山は、黙っていた。静かだが、眠ってはいない。
僕は、この山にもうずいぶん長くいる。山の神の声も何度か聞いている。だからなのだろう、言葉がなくても、その違いが分かるところまで来てしまっていた。
足元の土は温かい。だが、柔らかくはない。押さえ込まれ、内側に力を溜めている感触。
慧日寺の連中が、何かをした。それは見なくても分かる。
そしてその効果は、いや影響は出ている。だが――それが、山には不快なものとして捉えられている。それも、はっきりとだ。
僕が立ち止まると、空気が、ゆっくりと歪んだ。声ではない。音でもない。だが、意味だけが、直接流れ込んでくる。
『また、人が、縛った』
『息が詰まる』
……怒ってる。
だが、それは破壊衝動ではなかった。むしろ――判断を終えた者の静けさ。
「……噴火する気か」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。返答は、即座だった。
『『ためらわない』』
言い切り。脅しでも、誇張でもない。事実の提示だった。
拳を握る。
――やめさせるには、……交渉するしかない。
「条件を聞かせてくれ」
間を置かず、圧が返ってくる。
『不快な封印を、解け』
『巫女を、元の場所へ戻せ』
短い。だが、明確。
……それだけ、か。
拍子抜けするほど、理性的な要求だった。
「壊したいわけじゃないんだな」
一瞬、圧が揺れる。
『壊す必要が』
『ない』
その言葉の裏にある意味が、僕には分かった。人が間違えなければ、山は動かない。
「……分かった」
即答だった。考える余地は、もうない。
「封印の解除と、巫女の原状復帰。その二つを、自分が引き受ける」
言葉にした瞬間、山の圧が、少しだけ緩んだ。
『人が』
『言い切ったな』
「交渉役は、僕だ。絶対に逃げない。約束を果たす」
胸の奥で、何かが、静かに蠢く。あいつだ。暴れようとする気配は、今はない。むしろ――押し黙っている。
……お前も、聞いてるのか。
返事はない。だが、山の声が、重なる。
『その身に、穢れを宿す者よ』
『それでも、立つか』
「立つ」
即答だった。
英雄でも、巫女でもない。理由を知ってしまった。だから、立つ。
長い沈黙。そのあと、初めて、感情に近いものが流れ込む。
『よい』
許可でも、命令でもない。承認。
『ただし』
圧が、鋭くなる。
『巫女が戻らねば』
『封印が解けねば』
『『我らは、止まらぬ』』
僕は、深く息を吐いた。
「分かってる」
それは、約束ではない。宣言だ。
山は、それ以上、何も言わなかった。だが――背中に、はっきりと視線を感じる。常に見られている。僕の行動、そして選択を、最後まで確認している。
僕は、慧日寺の方角を、まっすぐに見た。
ふと、思い出す。あの人なら、たぶん、笑って言う。
――ややこしい役、引き受けちゃったね。
そして、同時にこうも言う。
――でも、あなた向きだよ。
僕は、苦く笑った。
「……だよな」
逃げ場は、もうない。
だが、行く道は、はっきりしている。




