それぞれの部屋
部屋は、静かすぎた。用意された個室。清潔で、余計なものがない。ベッドに腰掛けても、身体が休まる感じがしない。
あの庵の中を思い浮かべながら、私は自分の手のひらを見つめた。
……山にいた。
確かに、そこにいた。
風の重さ。水の冷たさ。神の気配。それらは、まだ皮膚の内側に残っている。それなのに、ここには何もない。
処理しきれない怒りが、今も残っている。慧日寺に連れて行かれたとき、抵抗はした。言葉も、理屈も、信仰も。全部、出した。それでも、力で押し切られた。
その事実が、今になって重くのしかかる。
「……私は、何を守ってるんだろう」
山か。神か。それとも――自分自身か。
思い浮かぶ顔がある。
……満足。
彼は、逃げていた。でも、逃げて、逃げまくって、結局は、誰も彼を捕まえられない。
……ずるい。
そう思って、小さく息を吐く。
純粋に羨ましいのだ。迷いながら、それでも自分で選んでいる。
自分は、選ばされた。選んだつもりで、奪われた。
布団に潜り込んで、目を閉じても、山の輪郭が消えない。
次こそは、ちゃんと選ぶ。そう、心の中で決めた。
**
現実に戻っても資料のチェックは終わらない。
俺はデスクに向かったまま、しばらく動かなかった。
資料は整っている。ログも揃っている。問題点は、すべて把握している。――はずだった。
「……なぜだ」
呟きは、誰にも届かない。
判断は正しい。手続きも正当。結果も、想定内。それなのに、うまくいっているという実感がまったくない。
満足の行動は読めない。
瀬戸の反応も、制御できていない。俺が差し伸べた手を振りほどこうとする。
……管理が、足りないだけだ
そう結論づけるのは、簡単だ。だが、胸の奥に残る違和感は、それだけでは説明できない。瀬戸が抵抗したというログが、頭をよぎる。
そして、慧日寺に来た時に見せた、あの目。
従っていない。
だが、反抗でもない。自分の場所を、自分で見極めると決めている目。
「……危険だ」
そう言い切ることで、自分を納得させる。だが、同時に思ってしまう。
……欲しい。
力ではない。立場でもない。支配できないものを、手元に置いておきたい。それが、独占欲にすぎないと言い切るのは、まだ早い。
端末を閉じる。次にやるべきことは、もう決まっている。
次のログイン。今度は、もっと深く関与する。そうしなければ、この世界。いや、あの世界は自分の知らない形で進んでしまう。それだけは、許せない。
**
シャワーを浴びても、疲れが抜けなかった。
身体は現実に戻っているのに、感覚だけが、まだ山に残っている。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
……逃げたな。しかも、たくさん。
ログアウトは、必要だった。けれど同時に、逃避でもあった。
瀬戸との約束を果たせず、近衛が動いて山が荒れた。それなのに、自分は一度、世界から降りた。
拳を握る。悔しさより先に、情けなさが来る。
「……美羽なら、どうするかな」
ふいに、その名前が浮かぶ。
矢代美羽。彼女なら、迷わないだろうか。
いや――きっと迷う。でも、迷ったままでも、動く。正しいかどうかじゃない。安全かどうかでもない。
「今、やらないと後悔する」
そう思ったら、そのまま踏み出す。それが、彼女だった。
「……だよな」
小さく呟いて、苦笑する。子どもみたいな判断基準だ。
でも、嘘じゃない。
あいつの力はある。山を歩く術もある。それでも、僕は逃げることしかできなかった。力が足りないのか。覚悟が足りないのか。答えは、まだ出ない。
ただ、一つだけ分かっている。
……戻る。
次にログインしたら、逃げない。美羽なら、きっとそうする。正解かどうかは、そのあと考えればいい。
僕は、目を閉じる。眠りに落ちる直前、山の気配が、ほんの一瞬だけ遠くで揺れたのを感じた気がした。




