静かな転換
近衛亘一の声は、落ち着いていた。
「――山狩りは中止だ」
その命令が通達されると、人は引き、場は収束へと向かう。誰もが、それを「英断」と受け取る。実際、そうだろう。地震が起きた以上、これ以上の行動は責任問題になる。俺は、正しい判断を下した。ただそれだけだ。
そうして――慧日寺に戻る。
瓦屋根の伽藍が、少し地震で崩れている。しかしながら、整えられた境内は、山中とはやはり違う。ここは、人が生きる場所であり、文明の匂いがする。そういった場所では、判断が力になる。
俺が帰還してから少しして、藤巻たちの隊が戻ってきた。そして淡々と、事実だけを報告する。
「庵の巫女ですが」
俺は、顔を上げる。
「……何か?」
「神託を告げたそうです」
一瞬、空気が止まる。そして、高僧NPCが、藤巻に問いかける。
「つまり、山の神が、社の巫女に言葉を授けたと?」
「はい、……降ろした、という認識でいいでしょう」
瀬戸が――山の神を。それは、想定外だった。
……なるほど。
思考が、別の方向へ回り始める。制御不能なのは、山の神だけじゃない。巫女もだ。彼女は、役割に従っているようで、実際は誰にも従っていない。
だからこそ、危うい存在でもある。そして、だからこそ、管理が必要でもある。
「……放っておけないな」
それは、独り言に近い。そこには庇護欲でもあるし、支配欲もあるし、単純な独占欲でもある。それは俺も否定しない。ただ――一番大きな理由は、自分の判断が、否定される可能性、それを排除したいということだった。
……俺がやらなければ。
俺は、そう結論づけた。まだ、誰にも言わないが、必ず成し遂げなければならない。瀬戸澄佳は、もはや俺の手元に置いておかねば安心できない。
地震の影響は軽微だった。少し被害は出たが、数日経てば、それは見る影もなかった。
慧日寺の伽藍は、山の麓にありながら、不思議なほど整っている。瓦屋根。白壁。掃き清められた回廊。ここには、秩序がある。俺は、この空気が好きだった。
山も別に嫌いではない。だが、山は応えない。人の言葉で、人の論理で、返事をしない。だからこそ、人が管理する必要がある。
「――状況は理解しました」
高僧NPCの声は、低く、慎重だった。
「山の神が荒れていることも、巫女が神託を受けたことも。だが――」
近衛は、その先を待たなかった。
「だからこそ、です」
声音は穏やかだ。だが、一切の迷いがない。
「巫女を、山に一人で置くわけにはいかない」
「それは――」
「信仰の問題ではなく、管理の問題です」
高僧は、すぐには答えない。この沈黙の意味を、俺はよく知っている。完全な同意ではないが、否定でもない。
「慧日寺には、磐椅神社の分社があります。巫女を迎え、然るべき形で祀る。神社の権威も、山の鎮静も、両立できます」
噴火の可能性。政治的な責任。国府の貴族たちとの関係。それらが、無言のまま天秤にかけられる。
やがて、高僧は一つ、息を吐いた。
「……強くは、反対しません」
俺には、それで十分だった。
廊下を出たところで、後ろからついてきた藤巻に声を掛けられた。
「……一線、越えますよ」
先ほどは無言で聞いていたくせに、誰もいなくなった途端に諫言とは藤巻らしい配慮だ。だが俺は、歩みを止めない。
「越えない判断は、もう済ませた。これは、最も合理的な手だ」
藤巻は、この言葉を否定できないだろう。藤巻も、俺の立場ならば同じことをするはずだ。そういう意味では、俺たちは考え方が似ている。
「彼女は、あなたの所有物じゃない」
その一言は、意外だった。少し感傷的で、らしくない。足を止めたのはそのせいだった。ただ振り返りはしない。
「……分かっている。だが、誰のものでもないままにしておくには、力を持ちすぎている」
これは、理屈だ。だが、その奥には別の熱があるのも藤巻は理解している。でも、それで構わない。理解したい。把握したい。自分の判断の枠の中に、置いておきたい。それは――独占欲だといわれても仕方ない。
でも、藤巻は、それ以上、言わなかった。これ以上は踏み込んでは来ない。俺を止められないことも、分かっているし、俺の怖さも一番理解している友達だからだ。




