神託
山狩りが始まったにしては、予想よりも静かだった。角笛も、鬨の声もない。ただ、人の数が目に見えて増えた。
修験者。山に慣れた猟師、金山師、木こりや炭焼き、農民までもが探索者、あるいは雑役として駆り出されている。
慧日寺を拠点に、彼らは山へ散っていく。道を外れ、尾根を越え、獣道に踏み込む者も出てきた。
私は、庵の前でそれを感じていた。結界の縁が、ひっきりなしに触れられている。
「……始まった」
そう呟いたとき、人の気配が近づいた。
結界の外から二人。近衛ではなく、現れたのは、藤巻直人と国分修司だった。
「……瀬戸さん」
藤巻が、静かに声をかける。国分は、周囲を警戒するように立っている。そして、その後から、多くの者たちが結界内に入ってくるのがわかった。
「どういう、つもりですか」
私は、率直に聞いた。
藤巻は、迷いなく答えた。
「待つためです」
「……誰を?」
「満足です」
私は、息を飲んだ。
藤巻は、淡々と続ける。
「彼は、ここに戻る。いや、失礼、来るが正しいですね」
藤巻は、私の嘘を信じていない。そうはっきり告げた。それはそうだろう、彼も自分のスキルの性質は、当然、私よりも深く理解している。
同時ログアウト。そんな事実はないと告げた時点では、まだそれは疑惑だった。ただし、先日の訪問で、自分のスキルがこの庵に、この結界内に及ばないことを確認したとき、藤巻の中で疑惑は、限りなく黒に変わったのだろう。だから、私にも監視がつけられた。
「ともかく事実がどうであれ、この庵を、無視はできない」
そして、追い詰められた満足は、この場所を駆け込み寺のように使うと、藤巻は考えていることを告げる。
「だから、山狩りと並行して、ここを押さえるべきだと提言した」
国分が、低い声で付け加える。
「近衛は、納得してない。だが、止めもしなかった」
「彼は、全体を見る人間です。山狩りの指揮を、自分で握った。だから、ここは――」
一拍。
「僕たちに、任せた」
瀬戸は、胸の奥が重くなるのを感じた。
……待ち伏せ。
それが、合理的な判断だと分かってしまう自分が、嫌だった。
「……私は何も、協力できません」
藤巻は、驚かなかった。
「ええ、分かっています」
「だから、邪魔はしません。ただ、ここにいるだけです」
国分が、短く言う。
「来たら、止める。来なければ、何もしない」
庵の前に立ったまま山の方角を見つめていた、そのときだった。結界の外がほんのわずかに、撓んだ。
風ではない。獣でもない。探索者でも監視者でもない。
声には出さない。だが、胸の奥で確信する。
――満足だ。
距離は、近い。だが、姿は見えない。山の影の向こう。結界の縁、ぎりぎりのところ。
私は、一歩も動かなかった。当然、呼びかけもしない。代わりに、そっと目を閉じる。
――来ないで。
それは、もちろん拒絶ではない。今は、会ってはいけないという判断だった。
その瞬間――結界の外の気配が、わずかに揺れた。
彼は引いた。
満足も、察したのだ。ここに入れば、追手を呼ぶ。ここに立てば、庵を危険に晒す。だから、彼は踏み込まない。その、引き際が、私には分かった。
胸が、少しだけ痛む。自分が彼の足かせになっている気がする。私のことには構わず、自分のしたいように、自由にしてほしいと思う。しかし彼の判断は、きっと間違っていないのだろう。
「……っ」
そのとき、藤巻が鋭く顔を上げ、国分を見る。
国分は頷き、低く唸る。
「ああ、近い」
藤巻は、即座に判断した。
「――動いた。満足が、この辺りまで来ている」
私は、振り向いて藤巻に問う。
「追う、つもりですか」
藤巻は、一瞬だけ瀬戸を見て、すぐ視線を山へ戻した。
「彼は、ここを避けた。いい判断だ。まだ、今は捕まらないでしょう」
だが、それで終わらせない。藤巻は、背後に向かって短く指示を出した。
「二人、尾根を回れ。もう二人、沢沿いを。近づきすぎるな。追い込むな。――見失うな」
探索者NPCたちが、音を殺して散る。
国分が、一歩前に出る。
「俺は?」
藤巻は、首を横に振った。
「待機。ここは、崩せない」
つい、私は唇を噛んだ。満足は、引いた。藤巻は、追わせた。誰も、間違っていない。だからこそ――。
そんなとき、空気が、張り詰めた。そして、少し間があって、山が、低く唸った。最初は、気のせいかと思うほどわずかな兆しだった。
だが、次の瞬間――地面が、大きく揺れた。
「……っ!」
庵の柱が軋み、結界が震える。
国分が、反射的に私を守るように身構える。藤巻は、とにかく状況を把握しようとしている。
揺れは、断続的に続く。落石の音。遠くで、木が倒れる気配。小規模ながら雪崩も。
私は、結界に意識を集中させた。揺れは、確かに強い。だが――致命的ではない。
次第に、揺れが収まってくると、藤巻は一呼吸整えて、声を出した。
「この規模なら、山狩りは中止になるな」
藤巻は、冷静だった。
「二次災害のリスクが高すぎる。近衛も、そう判断するだろう」
「……私は、ここに残ります」
私がそう告げると、国分が、驚いたように振り向く。藤巻は、露骨に眉をひそめた。
「危険だよ。一度、麓へ降りるべきだ」
そのときだった。
風が、止んだ。揺れは、完全に止まっていた。
そして――
声が、響いた。
頭の中ではない。耳でもない。場そのものに、落ちてくるような声だった。
『……巫女よ』
私は、思わず息を呑んだ。身体が、自然と正座の形になる。
『よく、ここに留まった』
『我らは、見ていた』
藤巻と国分は、声を失っている。
分かる。これは――彼らに向けられた言葉ではない。自分に向けられた言葉だ。
『人が山を測り、狩ろうとした』
『その中で、お前は動かなかった』
『それでよい』
胸に、熱いものが込み上げる。初めてだった。ここへ来てから、初めての――神託。
『新米ではあるが』
『我らの巫女だ』
その言葉に、涙が滲んだ。
『今は、ここを離れるな』
『まだ、終わってはいない』
声は、そこで途切れた。
私は、小さく息を吐いた。
「……聞こえましたね」
藤巻は、頷いた。
「はい」
「……だから、私は、ここにいます」
藤巻は、少しだけ、視線を伏せた。
「……了解しました。では、我々は退きます」
国分も、無言で頷く。
二人は、結界の外へ下がった。
そして私は、庵の前に座り直す。そして震える手を、膝に置く。
……やっと、届いた。
山は、私を見た。それだけで、十分だった。
山狩りは、この日を境に、止まる。
だが――物語は、止まらない。
私は、初めて、神の声を受けた巫女として、その場に座り続けた。戻るべき人が、戻ってくると信じて。
地震は、庵を壊さなかった。結界も、乱れていない。
数日後、私はこれまでと変わらず、庵の前で山に向かって座っていた。ただ、ひとつだけ大きな変化があった。
私は、濡れた裾を押さえ、胸に手を当てる。鼓動は早い。だが、恐怖ではない。
……警告。
怒りではない。拒絶でもない。
『線を越えるな』
山の神の言葉は、少し短い。説得が足りていない。何かを伝える方法が、私たち人間とはかなり違うのだ。代わりに、世界の方に示す。ときにざわめき、ときに揺らし、ときにあふれ出す。
私は、深く息を吸った。そして、小さく頭を下げる。
「……承りました」
声に出したのは、それだけだ。
監視、見張りの人数、その気配が、増えている。誰かが、自分を「扱うべき」存在としている。それは、はっきり分かる。
それでも、私は動かない。ここを離れれば、山は荒れる。ここにいれば、人が荒れる。どちらも、避けられない。
それでも――私は、ここにいると決めた。理由は、信仰でも、使命でもない。ただ、ここは自分の居場所だと、初めて自分で決めたからだった。




