来訪
庵に戻ったとき、最初に気づいたのは空気が軽い、ということだった。結界は、張られたまま。揺らぎもない。それなのに、どこか、落ち着かなかった。
火鉢の脇に、紙が一枚落ちていた。それだけで、胸がざわついた。
近づいて、手に取ると、短い文。
少し、山に入る
探索と、状況確認
無理はしない
何かあれば戻る
――満足
「……」
息を、静かに吐く。言葉が少なく、判断だけが書かれている。無責任ではない。だが、自分一人で抱え込む書き方だ。それが彼らしい気がした。
「……もう」
思わず、苦笑が漏れた。怒ってはいない。ただ――少し、寂しい気はする。
庵の外に出る。山は、いつも通り静かだ。鳥が鳴き、少し風もある。異変は、特に感じられない。
「……戻るって、言ってたけど」
いつだろうか。そんなことは、考えても分かるわけがなかった。
私は、再び庵の外に出て、結界の状態を確かめた。問題ない。けれども、外の動きが見えない。結界は範囲、その内側は守るし、知らせもしてくれる。その淵は、とくにわかりやすい。しかし、その外には干渉しないし、できない。
昼を過ぎたころ、人の気配がした。結界の淵に複数人。足音に、ためらいがなかった。
「……」
覚悟を決め、庵の前に立つ。そこに現れたのは、見知った顔だった。
近衛恒一。その後ろに、藤巻直人、国分修司、三好千沙。
「……瀬戸」
近衛は、いつものように、少し余裕のある笑みを浮かべている。だが、目は、山を見ていた。
「久しぶり、って言うほどでもないか」
私は、知人としてではなく、この山の巫女として一礼した。
「……皆さんお揃いで、どういう用件ですか」
近衛は、肩をすくめるが、私の意図をくみ取り、彼も自分の役割を重んじた。
「二つある、一つは――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「反逆人、満足を探してる」
胸が、小さく鳴った。だが、表情には出さない。
「……もう一つは、君だ」
その言葉に、思わず眉をひそめた。
「私?」
「この山は、荒れ始めてるらしいな」
近衛は、私の結界を見た。
「そのために、私が派遣されました」
私は、あらためてその経緯を口にする。ここにいる誰もが知っていること。ただの、枕詞だ。
三好が、横から口を挟む。
「ここに来る途中も色々と聞いたよ。山が怒ってるとか」
私は、唇を引き結んだ。
「……満足くんは、ここには来ていません」
それは、私にとっては彼を庇うための、ただの嘘。しかし、彼らにとっては、別の意味があった。
藤巻が、手元にある何かを見ながら、問いかける。
「瀬戸さん、あなたは昨日、規定時間より30分あまり早い時間にログアウトしています。そして、ほぼ同じ時間に、満足もログアウトしている。これを知ったとき、最初は君たちが一緒にログアウトしたと考えた。でも、一方で、君たちが会った、あるいは会話したというログは確認できなかった」
「偶然です」
私は即答した。少し不自然だったかもしれないけど、ここで言い訳を考えてはいけない気がした。
「彼と会ったのは、多賀城で一度だけ。それ以来、彼とは会っていません」
藤巻のスキルがどういうものかははっきり知らない。ただ予測はついている。彼は、多賀城、つまり国府の文官だ。おそらく、この会津も含めた陸奥国のすべての記録、痕跡をログとして確認できる。役職権限に紐づいたスキル。それは、この国の支配下にあるものであれば、ほんの小さな出来事でも掘り起こせるのだろう。
ただ、その能力にも限界がある。私の結界と同じだ。中のことはわかるが、外はわからない。そういうスキル。だから、たとえ私が満足くんと本当は会っていたとしても、彼はその痕跡にアクセスできない。なぜなら、この庵は私の結界内であり、神社の領域だからだ。
政治と寺社、これらは別の権限によって統括されている。朝廷の制度は「二官八省」、祭祀を司る神祇官と国政を司る太政官は、完全に別管轄だ。だから、藤巻もログは追えない。麓の神社の神主に話を聞くことができても、そこでは何もわからない。この庵でおきた出来事は、基本的には私しか知らない。
無言が少し続いた。近衛は、じっと私を見ている。責めるでもなく、試すでもなく、ただ観察するような目。
「……瀬戸」
口調は、意外なほど穏やかだった。
「ここに一人でいるのは、正直、危険だ。一緒に慧日寺に行かないか。俺たちは、これからあの寺に世話になる。話も通せる」
藤巻が、補足する。
「修験の報告が、集まる場所だ。山の様子も正確に把握できるだろう。君の役目を考えても有益な情報が、高い密度で、より多く入ってくるはずだ」
三好は、同年代の同性ならではの距離感で言った。
「悪い話じゃないと思うよ。拠点は整ってるし、物資も人手もあるしね。少なくとも、一人で山と向き合うよりはいいと思うよ」
私は、すぐには答えなかった。庵の柱に手を触れる。ここは、私が選んだ場所だ。派遣されたとはいえ、今は、自分の意思で立っている場所。
「……お気遣い、ありがとうございます」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「でも、私はここを離れられません」
近衛が、眉をひそめる。
「理由は?」
「役目です」
私は、はっきり言った。
「巫女として、この場所に立つことが、山と、人の間に立つことが、今の私の、務めです」
みなが沈黙するこの場所を、風が通り抜け庵の軒を鳴らす。
近衛は、しばらく考えるように視線を落とし、それから言った。
「……分かった。無理強いはしない。ただ――」
視線を上げる。
「何かあれば、すぐ知らせてほしい。これは、忠告だ。山は、常に危険と隣り合わせだ」
私は、一礼した。
「承知しています」
近衛たちは、それ以上踏み込まなかった。その日は、それで終わった。
それから、ゲーム内で数日が過ぎた。
近衛たちは、正式に慧日寺に入った。彼らの拠点となるだろうし、慧日寺も彼らの意向を無視はできないだろう。たぶん、そんなに遅くないうちに、その実権を近衛は握ってしまう気がする。彼らならできるだろうし、それをやらない理由も考えにくい。
私は、庵に残った。そして、毎日、結界を確かめ、山に挨拶をし、対話を試みる。
返事はない。だが、拒絶もない。
「……まだ、間に合う」
自分に言い聞かせる。そして、戻ってくるのを待つ。そんな日々だった。
そして、彼らが慧日寺に入ってから、徐々にだが山の様子が変わり始めた。それは麓に近い、この場所でも分かった。山に入る修験者の数が増えた、その他にも彼と同じ猟師のような者も見かけるようになった。多くの気配が、山に入り、谷を這い、尾根を越える。
人が、山を測り始めている。風が重くなり、鳥が高く飛ばなくなる。そんな雰囲気だ。
私は、夜ごとに胸騒ぎを覚えた。
そしてある日。結界の縁が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬だが、確かに何かを感じ取った。私は、何かが始まるのだと悟った。
まだ始まっていない。だが始める準備が、整いつつある。慧日寺に集まった人々が、「対処」を考え始めたとき。その中心にいるのが、近衛であることも。そして、その目的が山の中にある、まだ戻らぬ人だということも。私には、現実感を持って分かってしまった。
そして、結界の淵が揺れる頻度が多くなっていた。いつも決まった場所で。はじめ彼が戻ってきたのかと思ったが。それは複数の場所にあった。これが意味するのは、近衛なら警護だというかもしれないが、この場所、庵、つまり私自身に監視がついたということだった。
私は、庵の前で静かに座り直した。動かない。逃げない。ここで、待つ。それが、自分にできる唯一のことだと信じながら。




