急がず、走らず
山の深くへ進んでいった。標高ではない。人の気配からの距離だ。
僕は、獣道を捨て、獣も使わない斜面を選んだ。岩が多く、雪が残り足場も悪く、水も乏しい。それでも人は来ない。……来ないはずだった。
最初の遭遇は、本当に偶然だった。沢を渡ろうとしたとき、向こう岸に人影があった。
僕と同じ猟師だろうか。探索型のNPCだった。軽装だが、弓と山刀といった武器を持っているのが見える。
互いに、一瞬、固まる。
「……いたぞ!」
声が上がった。お互いに逃げきれない距離だ。
僕は、舌打ちして踏み込んだ。オートにはならない。だから、全部自分でやる。間合いを詰め、腕を打つ。山刀の峰で、膝を崩す。相手は倒れるが、死んではいない。
「……くそ」
息をつく間もなく、もう一人。背後から弓を構え、こちらを狙っている。咄嗟に、僕は石を蹴り上げる。そして構えが崩れた瞬間、体当たりを食らわせる。
転がる、そして無力化する。それだけだった。
……殺していない。
穢れを溜めることが、今の僕にとって一番のリスクだからだ。だが、殺さなくても、そして、それがたとえNPCだとしても、誰かを傷つければ、やはり穢れが少し残る。さらに、足跡や折れた枝。血の滲みなどは全部、痕跡として残る。
「……これじゃ」
山は、それなりには隠してくれる。だが、相手が増えれば話は別だ。
二度目、三度目。今度は、複数人に囲まれかける。相変わらず、獣を狩るときようにオートにはならない。そして、戦闘の度に、胸の奥が疼く。あいつが、揺れるように、ざわめく。
……開放すれば終わる。この力を使えば、抜けられる。
だが。
「……ダメだ」
使えば、もう戻れないかもしれない。それに、山の神の怒りをもう一度買うかもしれない。そうなれば、瀬戸との約束も果たせない。
僕は、必死に耐え、煙のように逃げた。
そのたびに、痕跡は増える。そして、そのたびに、少しずつ包囲は狭まる。気づいたときには、選択肢は一つしか残っていなかった。
「……山を、出るしかないか」
このまま奥へ行けば、いずれ詰む。相手はこちらの領域に入れなくても、包囲を緩めない。
ならば、出る前に、やらなければならないことがある。
「……瀬戸さんに、伝えないと」
山を探索して、彼女が知りたがっていたことについて、具体的で有益な情報があったとはいえない。ただ、肌で感じた、あの、ざわめき、イラつき、警戒感は、きっと伝えなきゃいけないことだと思う。
そして、自分がここを離れること。追い手が、この山に入っていること。そして――もう、ここに戻れないかもしれないことも、ちゃんと話さないといけない。
そう思って僕は、進路を変えた。あの庵、あの結界の内側へと、東へ。
慎重に。だが、急いで山中を進む。時間が圧縮されていく。
どれだけ進んだかわからないが、庵にほど近い、彼女の結界の端にたどり着いたとき、空気が変わった。
静かすぎた。鳥が、鳴いていない。そして、結界の縁に、わずかな乱れがあるように感じる。
「……まさか」
足を止めると、風下から、人の匂いがする。巧妙に隠しているが、隠しきれていない。
「……待ち伏せ、か」
誰だ。修験か。探索者か。それとも――近衛の手の者か。
庵は、すぐそこだ。瀬戸は、きっとそこにいるはずだ。彼女は無事だろうか。僕のせいで、彼女に何かある。そんな最悪の事態も想定される。
僕は、山刀を握り直した。ここで退けば、何も伝えられない。だが、進めば――衝突は避けられない。
あいつが、静かに、しかし、確かに息をしたような感触。準備は整っているとでも言っている感じ。
「……」
僕は、動けないでいたが、闇の向こうの人影は動いている。こちらは風上、当然ながら、こちらのことは把握されているはずだ。
選ばなければならない。このまま、逃げるか。それとも、彼女に伝える、庵を守るために、立ち向かうか。
山は、答えをくれない。選ぶのは、自分だ。
瀬戸の庵は、もう目と鼻の先だった。それでも――僕は、足を止めた。
「……行けない」
結界は、まだ保たれている。それは、彼女が今も無事だということを意味していると信じるしかない。もしも、ここで自分が向かえば、間違いなく追手を引き込む。彼女を巻き込む。それだけは、避けなければならない。
僕は、進路を切り替えた。庵を回り込むように、さらに東へと進み、山を、抜ける方向だ。
だが、自分が気づいたのと、同じ瞬間――いや、ほんの少し遅れて向こうも動く。音はないし、声もない。だが、気配が増えている。点が線となり、線が面となって僕をゆっくりと、包囲する。そして柔らかくそれが閉じていく。
「……っ」
息を殺して進んだ。急がず、走らず、喋らず、近づかない。まるで、避難訓練の標語のように、慎重に、冷静に。見つからないように、捕らえられないように。いけるとこまでいく。だが、このままでも、いずれは詰む。そのときは、もう覚悟を決めるしかないかもしれない。
そのとき――空気が、変わった。
風が、止まる。山が、息を吸う。
『……人の子』
声が、頭の奥ではなく、空間そのものから響いた。
僕は、足を止めた。逃げるより先に、身体が反応した。
『無礼なことよ』
『我が山に入り、山狩りなどという真似をする』
二つの声は、怒っている。だが、その怒りは僕に向けられてはいない。
『修験の名を借り、山を踏み荒らす者ども』
『その前に立ったこと、見ていた』
僕は、喉が渇くのを感じながら、問いかけた。
「……評価、されてるのか?」
『穢れを宿しながら、自らを抑えた』
『力に呑まれぬ意志。人の身で、よく耐えた』
意外だった。罵倒でも、拒絶でもない。むしろ――感心に近い。
『穢れは、外から来るものではない』
『抱え、押し込み、制するものだ』
『その姿勢は、嫌いではない』
その瞬間。山が――揺れた。
最初は、足元の小さな震え。次に、地鳴り。岩が鳴り、木々が軋む。
「……っ!」
満足は、思わず身構えた。逃げなければ――そう思った瞬間。
『動くな』
声が、はっきりと告げた。
『今、ここが一番安全だ』
僕は、歯を食いしばった。だが――従うしかないと、直感が告げている。
それでも。
「……巫女の庵はどうなんだ?!」
叫ぶように、問い返した。山が大きく震える中で。
『……』
一瞬の、間。そして。
『新米だが』
『我らの巫女だ』
『結界も、心も、揺れてはおらぬ』
『彼女も、大丈夫だ』
その言葉で――、僕の身体から、力が抜けた。
「……そうか」
膝をつく。地面に、手をつく。揺れは、続いている。だが、恐怖はない。追手の気配が、一瞬、乱れるのを感じた。人は、人の暮らしは、人の営みはこの揺れに弱い。自然も、その影響で一変する。それは、人の魂の記憶に結びついている。
僕は、目を閉じた。ただ、信じるしかなかった。そして地震が、ゆっくりと、収まっていく。
山が、再び、息を吐く。祭りの後のような、いや嵐の前かもしれない。そんな静けさ。そんな静寂が訪れる。僕は、まだ動かなかった。神が告げた通り――ここが、今夜、一番安全な場所だった。




