慧日寺と行商人
慧日寺の山門をくぐった瞬間、鷺沢里穂は思わず口笛を吹きそうになった。
「……へえ」
瓦屋根。白く塗られた回廊。整った伽藍。土埃と汗の匂いが支配する多賀城とは、少し違う。ここは――より文化の匂いがした。
「思ったより、立派ね」
背負っていた荷を下ろしながら言うと、近衛恒一が当然だという顔で答える。
「慧日寺は別格だ。東北じゃ、官寺に準ずる扱いを受けてる。朝廷とも、ちゃんと繋がってる」
その言い方が、いかにも“近衛家の人間”らしかった。
私は笑って、荷を開ける。簡易回復薬。小さな護符。そして薬の素材。食料はほとんどない。
「はいはい、補給品一式。値段は輸送費別で、いつも通り」
「今回は、山入り特価だな。まあ、ありがとう。助かったよ」
近衛が少し渋い顔をしている中で、その周辺は露骨に表情を明るくする。
国分修司は、黙って受け取りながら一言。
「……助かる」
三好千紗は、中身を確かめるように一つ一つ手に取る。
「品質、いいわ。やっぱ多賀城経由はいいね」
私は思わず肩をすくめる。
「最近は、なんだかんだ多賀城の流通が安定してる。けど、問題は――」
視線を、伽藍の奥へ向けた。僧たちが行き交い、修験者が控え、境内は不思議な静けさに包まれている。
「ここに、どれだけ長居するか、よね」
近衛は、少しだけ口角を上げた。
「しばらくは、俺たちの拠点はここだ」
ふ~ん、前線はここか。修験の報告も集まるし、山の情報も入るもんね。
「実はリアルでも俺の家は、慧日寺と古い縁がある」
私は、その縁の正体を考える。寄進。人事。情報。そして――顔が利くという事実そのものが、力だと近衛は言ってる。だから、これからも頼むと。
「なるほどねえ。亘一くんの家とつながりある寺。だから瓦も伽藍も、ここまで整ってるわけだ。ここ多賀城に負けてないよね」
近衛は、こちらに一瞥をしただけで、それ以上説明しなかった。代わりに、藤巻直人と一緒に、高僧らしきNPCのもとへ向かう。
話の内容は聞こえない。だが、姿勢と距離感で分かる。
――現状では、まだ対等だ。
その間、私は千沙と国分を連れて、境内を歩く。回廊は掃き清められ、香の匂いが残っている。
「……綺麗」
千沙が、ぽつりと言った。
「清潔すぎるくらい」
国分は、どこか居心地が悪そうだ。
「人、多いな」
「そうね」
私は、柱や床をさりげなく観察する。ここは、祈りの場であると同時に、管理された拠点だ。倉があり、文書庫があり、人の流れが制御されている。
「個人的には、多賀城より、よっぽど近代的な気がする。軍事とか権威じゃなく、宗教や思想で統治してる感じ」
千沙が頷く。
「だから、情報が集まるんだろね。噂も、誇張も」
回廊を離れて、私たちは境内のさらに奥へと歩いていた。
伽藍の賑わいが、一段、二段と遠ざかる。瓦屋根は途切れ、敷石も粗くなり、人の気配が薄れていく。
「……こっちは、あまり使われてないみたいね」
私は、半分商人の勘で言った。国分は、周囲を警戒するように視線を走らせる。
「静かだな」
そのとき――かすかに、声が聞こえた。低く、澄んだ、女性の声だった。読経だ。
「……」
千沙が、思わず足を止める。声は、決して大きくないが、山の空気に溶けるように、すっと耳に届く。そんな声だ。節回しが、妙に整っている。技巧ではなく、呼吸そのものが、経になっている感じだ。聞きほれるお経というもには、あまり体験したことがなかった。
「……上手い」
千沙が、小さく言った。国分は、理由もなく背筋を伸ばしている。鷺沢は、黙ってその方向へ歩いた。
庵があった。質素だが、手入れが行き届いている。柱は古いが、歪みはなく、軒先には余計なものがない。
「……いい庵ね」
経が終わる。しばらくして、中から人影が現れた。
尼だった。年の頃は、三十前後だろうか。派手さはない。だが、不思議と目を引く。白い肌。静かな眼差しが記憶に残る。そんな人だった
「……失礼いたします」
千沙が、一歩前に出る。
「こちらで、お経が聞こえたもので」
尼は、柔らかく微笑んだ。
「それは……お聞き苦しくはありませんでしたか」
「いえ」
私は、商人らしい調子で口を挟む。
「むしろ、足が止まりました。慧日寺には素晴らしい尼僧の方がいらっしゃるのですね」
尼は、一瞬だけ考えるように視線を伏せる。
「……そうですね。ただ、私は本寺の僧ではありません。ここを、お借りしているだけです」
千沙が、名乗る。国分も、簡単に続く。私も続けて、ただ少しだけ間を置いてから言った。
「行商をしています。鷺沢と申します」
尼は、頷いた。
「私は……、こちらでは如蔵と呼んで頂いております」
それだけ。苗字も、由緒も、語らない。
その瞬間――だった。
境内の方角から、騒がしい声が上がった。
「戻ったぞ!」
「怪我人だ!」
足音が、この厳かな境内に響く。慌ただしい気配がして、三人ともほとんど同時に振り返った。修験者が負傷して戻ってきたようだ。一人が、肩を押さえ、もう一人に支えられている。
衣は乱れ、息が荒い。
「……山で、何かあったみたいね」
千沙が、低く言う。
如蔵尼は、その光景を見て、静かに合掌した。
「……山が、動いたのですね」
その言葉の意味を、三人はまだ知らない。だが――空気が、確実に変わったことはわかる。
慧日寺の静けさが、一段、張り詰める。噂が、ここから動き出す。
まだ、誰も名前を知らない。だが、異形の話は、今まさに語られ始めようとしていた。
修験者は、本堂の縁側に腰を下ろされた。肩を押さえたまま、息は整わない。周囲には、僧が二人、若い修験が一人。高僧は、まだ来ていない。
つまりこれは――正式な報告の前段だ。
「……落ち着け」
僧の一人が、低い声で言う。
「何があった」
修験者は、一度、深く息を吸った。
「……山中で、西の尾根を越えた先です。修行の戻りで、気配を感じました」
「最初は、獣かと思った」
声は、震えていない。とても理性的だった。だからこそ、リアリティがある。その報告は、恐怖よりも、混乱を伝えた。
「だが……」
修験者は、言葉を探すように、少し間を置く。
「人の形をしていた」
国分が、ぴくりと反応した。
「人、ですか」
修験者は、首を横に振る。
「……人に、見えた。が、違った」
僧が、静かに問う。
「何が」
「影です」
修験者は、はっきりと言った。
「影が、おかしかった」
「山の影と、重なって……輪郭が、溶けていた」
国分が、無意識に指を握る。千沙は、一歩も動かず、耳だけを澄ませている。そして、私には、よくわからなかった。ただ、面白そうな何かが起きたことに胸を躍らせていた。
「呪を放ちました」
修験者は続ける。
「効いた」
「うむ、確かに、効いた感触があった」
「だが……近づかれて。私は倒された」
「速かった」
「術の合間に、一気に間合いを詰められた」
僧が、眉をひそめる。
「それで、この怪我か」
修験者は、肩を押さえた。
「刃でした。おそらくは山刀」
「……殺されは、しなかった。おそらく、その気がなかったのだと思います」
その言い方に、その場が一瞬、静まる。
「あの化け物は、追ってこなかった」
「……見逃された」
私が口を挟むと、その言葉に、僧たちは目を吊り上げる。すぐに千沙が、私を抑え、「すみません、うちの若いのが」といった調子で詫びを入れ、国分が、それに同調するとようやく場は収まり、報告に戻る。
「つまり」
僧の一人が、言葉を選びながら言う。
「敵意は、あるが……無差別ではない、そういうことだと思います」
負傷した修験者は、小さく頷く。そして、もう一人も同意した。
「はい」
「理は……、ありました」
ここで初めて気づく。――まだ、誰も魔とは言っていない。鬼とも、穢れとも、断じていない。ただ、人の形をしていた影が異様だった。術が効いたけど、強かった。で、殺されなかった。その事実、それだけだ。
如蔵尼が、少し離れた場所で、その様子を見ている。表情は、変わらなかった。ただ、目を伏せている。
修験者の話が、終わった。僧の一人が、小さく呟く。
「……これは、我々だけで 判断できる話ではないな」
その一言で、流れが決まった。ここから先は、事象は整理される。言葉が選ばれ、意味が付与され、役割が与えられる。
私は、内心で思う。
……ああ、ここからだ。
ここから、話は使われる。まだ、誰の名前も出ていない。だが、もう戻れない。噂は、正式な言葉になる前に、すでに動き始めていた。




