ファミレスの水
ファミレスの空調は、いつも少しだけ効きすぎている。
だが今の藤巻直人には、その冷えがありがたかった。熱を持った思考を、現実側の温度に戻してくれる。
――ログアウトから、二時間半。
グラスの水滴が落ちるのを見ているだけで、「時間が流れている」という当たり前が、少しずつ身体に馴染んでいく。
VRから戻った直後は、いつも妙だ。椅子に座っているのに、座っていない。机の感触があるのに、「触れた」という実感が遅れてくる。視界の端に、さっきまでの風景の残り香が混じる。
藤巻は自分の指先を、テーブルに軽く押し当てた。硬い。冷たい。
「でさ」
声を上げたのは鷺沢里穂だった。ハンバーグを半分ほど食べたところで、箸を止め、楽しそうに言う。
「満足くん、戻ったんでしょ?」
テーブルの空気が、わずかに変わる。近衛恒一はナイフとフォークを置き、余裕のある笑みを浮かべた。
「戻ったらしいな」
「らしい、って」
鷺沢は身を乗り出す。
「だってさ、多賀城であんなことになって、行方不明っぽかったじゃん。噂いろいろあったよ?」
藤巻は、その噂の内訳を頭の中で仕分けする。
放火。反乱。逃走。異常ログ『禍津日』。それに関連する謎の力。追跡……。
事実と誇張が混ざった典型的な形だ。
「戻ったのは事実だ」
藤巻が淡々と口を挟むと、鷺沢が目を輝かせる。
「やっぱり!」
「同時にログアウトしてる」
藤巻の言葉に、三好千紗が反応する。
「同時?」
「誰と?」
藤巻は、一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……瀬戸澄佳」
鷺沢が「えっ」と声を漏らした。
「あの瀬戸さん? え、意外。真面目な人でしょ?」
近衛は興味なさそうに肩をすくめる。
「たまたま、ログアウト時間が重なっただけかもしれない。そもそも、彼女と奴が会話したゲーム内ログなんて残ってたか? なかったろ」
その言い方に、藤巻は小さな違和感を覚えた。ゲーム内ログはいつも見せている、今話しているのは、現実での運営ログの話だ。これは、近衛のいわば実家パワーに依存した特権で確認した情報だ。近衛も当然知っている。
――たまたま。
ログは、そんな言葉を好まない。偶然はあるが、偶然の形には偏りが出る。
「偶然にしては、条件が揃いすぎている。ログアウトは17時で決まってるところ、二人ともその30分前に、ほぼ同時なんだからな。一緒だったとも考えられる」
藤巻はそう言ってから水を飲む。冷たさが喉を通る感覚が、少し遅れてくる。
国分修司が、静かに頷いた。
「俺も、そう思う」
声は低い。いつもよりさらに短い。
「満足は、おかしかった」
国分は、言いながら自分の右肩を軽く揉んだ。それは癖、というより――痛みの所在確認に見えた。その様子を、三好千沙はじっと眺めていると、国分がその視線に答える。
「なんか、ずっと身体が張り付く感じで気持ちがわるい」
鷺沢がすぐ反応する。
「修司くんも? え、なに、どんな感じ?」
国分は、少しだけ言葉に詰まる。言語化が得意じゃないのだ。それでも、ぽつぽつ話し始める。
「戻っても、身体が戻ってない感じ。椅子に座ってても、背中が地面にあるみたいで、あと……手が」
国分は自分の手のひらを見た。
「握ったつもりがないのに、握ってる。力が抜けるのに、時間がかかる」
藤巻は、内心で頷く。典型的な運動残響。神経接続が濃いほど、戻り際に残りやすい。VR側では、動作が「意図→即応」になる。現実では「意図→筋肉→摩擦→重力」だ。その差を、脳がしばらく補正し続ける。
「それ、いつも?」
鷺沢が聞く。国分は首を横に振った。
「いつもじゃない。今回は、強い。……山まで走ったからかもしれない」
三好が箸を置いた。
「走ったから、だけじゃない」
彼女は、国分の手首を見る。脈を取るみたいな目つきだ。
「あなた、戻ってから水、何杯目?」
国分は少し考えて言う。
「……二杯」
「足りない」
三好は即断した。
「VRの身体は汗をかく。あっちは設定でも、こっちは本物。脱水って、思考も感情も歪むから」
鷺沢が笑う。
「なにそれ、保健室」
三好は笑わない。
「笑い事じゃない」
「ねえ、直人。規定が八時間なのって、こういうのが理由でしょ?」
藤巻は頷いた。
「そういうことになっている」
「なっている?」
鷺沢がすぐ食いつく。
藤巻は答えた。
「八時間以上は、脳の補正が戻らない。戻らないまま再ログインすると、差分が積み上がる。現実の重力と、向こうの重力がずれる。時間感覚もずれる。いずれも、まあ恐れがあるで、科学的根拠は確定していないがな」
……まあ、その実験場でもあるんだろうな。このバイトは。
藤巻は、それは心にとどめ口にしなかった。
「時間感覚って、あの……体感?」
鷺沢は目を丸くした。
「そう」
藤巻は水をもう一口飲んで、続ける。
「ログアウトしても、しばらく向こうの時間が頭の中で続く。睡眠が浅くなる。夢の中がゲームになる。日常の音が、向こうのSEに似てくる」
鷺沢は楽しそうに言った。
「それ、ちょっと楽しそう」
「楽しくない」
三好が即座に切る。
「現実の食事がまずくなる。匂いが薄く感じる。それで、刺激の強いものに走る」
彼女は国分の皿をちらっと見た。国分は、辛いソースを追加している。国分は気まずそうに目を逸らした。
鷺沢が言う。
「え、でも、千沙は平気そうじゃん?」
三好は肩をすくめる。
「平気そうにしてるだけ。私は自分の身体のチューニングの仕方を知ってるし。これでも健康オタクだし、なんかゲーム内の薬師ロールのせいで、いろいろ勉強もしちゃったのよね。で、こっちに戻っても、つい見ちゃうの」
そう言って、彼女は自分の首筋を指で押さえた。そこに、なにか薄い痛みがあるみたいに。
「私の場合、」
三好が声を落とす。
「痛みが、遅れて来る」
鷺沢が首を傾げた。
「遅れて?」
「向こうでは痛みを調整されてる。でも現実の身体は、その調整がない。だからログアウトしてから、筋肉痛とか、頭痛とか、それこそ生理痛とか、いつもと全然違う。私の体、乱れてますって感じ」
「なんか、千沙がいうと、ちょっとエロいね。『私の体、乱れてます』って、もう一回いってみ」
鷺沢はエロおやじロールをしながら、三好を茶化す。もしかしたら、鷺沢も何か思い当たることがあるのかもしれない。
そんなことを思いながら藤巻は、近衛を横目で見た。近衛は涼しい顔をして、サラダを口に運んでいる。だが、藤巻には分かる。近衛の足が、微かに揺れている。貧乏ゆすりとは違う。揺れを探している感じだ。
――平衡感覚の補正。
VRの移動は、現実の三半規管と一致しない。慣れた人ほど、逆に帰還後にズレが出ることがある。それを本人は「落ち着かない」で片づける。近衛は、気づいていないふりをしている。
「でさ」
鷺沢がまた話を戻す。
「満足くんの件、これって……普通じゃないんだよね?」
藤巻は答えない。代わりに、事実だけを並べる。
「31時間超えは、普通じゃない。規定を超えた段階で、普通なら強制的に切られる。切られなかったのは、切るリスクがあったからと考えるのが妥当だろうな」
鷺沢が身を乗り出す。
「じゃ、瀬戸さんは? 瀬戸さんも同じぐらい?」
藤巻は首を横に振る。
「瀬戸は、普通だよ。いつも正常。少なくとも、ダッシュボード上は」
三好が口を挟む。
「それが一番怖い」
国分が低く言う。
「……なんで?」
三好は、指でテーブルを軽く叩く。
「異常が見えるなら対処できる。でも見えないのに影響が出るなら、管理側は気づけない」
鷺沢が面白がって言う。
「影のヒーラーみたい」
三好が鷺沢を見る。目が冷たい。
「面白がってる場合じゃない。満足くんは、次はもっと深いところまで行く気がするよ。そしたらまた同じ状態になるんじゃないの」
「深いところって、どこ?」
鷺沢が聞く。三好は答えない。そして藤巻が代わりに言う。
「システムの定義外で、強制ログアウトもできないそんな状況の先だろ」
近衛が、そこで初めて口を開いた。
「定義外でも、また囲えばいい。制度はそうやって保つ」
藤巻は、近衛の言葉を否定しなかった。ただ、内心で思う。
――制度は、囲う。だが囲うには、境界が必要だ。境界を決められないものは、囲えない。
鷺沢が、今度は国分に向き直る。
「修司くん、他に変なのある? 戻ってから」
国分は少し考え、言いにくそうに言った。
「……音」
「音?」
「遠くの音が、近い。近くの音が、遠い」
藤巻は理解した。
音像定位のズレ。向こうの世界で「耳が良い」役をやると、現実側の距離感がずれることがある。国分は続ける。
「あと、人の声が、NPCみたいに聞こえる瞬間がある」
その言葉に、テーブルが一瞬だけ静まった。
鷺沢が冗談っぽく笑う。
「えー、こわ」
でも笑いが続かないのは、全員が「分かってしまった」からだ。
藤巻自身も、ログアウト直後は店員の声が通知音 みたいに感じることがある。
現実の会話は、曖昧で、余白が多い。VRの会話は、必要な情報が整形されている。その差が、戻った直後に不快になる。
三好が低い声で言う。
「だから八時間なのよ。残業厳禁。守らないと、現実が薄くなる」
藤巻は、その言葉に頷きながらも、別のことを考えた。
満足燈彦は、31時間。時間感覚が無い。そして一度は向こう側に入って、そして戻った。
瀬戸澄佳は、正常域。
満足の異常値はなぜか正常になり、彼女とほぼ同時に現実に戻った。
――普通の人にも影響は出る。ただし、出方が違う。
国分は身体に出る。三好は感覚と知識で抑える。近衛は見せないが何かしら出ている。鷺沢は面白がることで隠している。そして満足は――境界へと踏みこんでいる。
藤巻は、冷めかけた料理に手を伸ばしながら思った。制度は、異常を嫌う。だから八時間で切る。だが異常が価値を持つとき、制度は切れなくなる。そして、切れないまま観察を続ければ、次に壊れるのは誰か。
藤巻はグラスを置いた。水滴が垂れて、コツ、と音を立てる。
――あの世界は、もう安全な実験じゃない。
その結論だけが、冷えた空気みたいに、五人の間に残った。
藤巻は、誰にも気づかれないように端末を開いた。
ログアウトのタイムスタンプ。ほぼ一致している。ただ、秒単位ではそれなりにズレている。
これを、どう読むべきか。少しの違和感を胸に残したまま、藤巻直人は何も言わず、冷めた料理に再び手を伸ばした。




