実験初日
実験初日は、朝から雨だった。
研究棟の正面玄関で受付を済ませると、参加者たちは番号札を渡され、地下へ案内された。それぞれ小さなバッグを持っている。三週間分の生活用品としては、あまりにも軽い。
「最低限のものは、こちらで用意しています」
そう説明されても、自分の私物がほとんど意味を持たなくなる感覚は、少し落ち着かなかった。更衣室で着替えたあと、全員が同じフロアの待機スペースに集められる。
白を基調とした空間。カプセル型のVR装置が、壁際に等間隔で並んでいる。寝台にも、医療機器にも見える形だ。
「……棺桶みたいだな」
誰かが冗談めかして言い、小さな笑いが起きる。笑えるうちは、まだ現実だね。
久世は、奥の操作卓の前に立っていた。説明会のときより、表情が硬い。
「今日は、いきなり長時間は入りません。初回は、環境への適応とキャラクター確認までです。まあ、チュートリアル以前のお試しですね。どうしてもこの試験の適性がないと認められた人は、本日の時点でストップがかかります。あと、やっぱり辞めたいという人も本日中に申し出てくださいね」
モニターに、各自の名前とロール候補が表示される。
武士、陰陽師、僧、巫女――。
そして、最後にまとめて表示される項目。
猟師(蝦夷)
僕の名前は、そこにあった。
「……」
驚きはなかった。説明会の時点、あるいはもっと前から決まっていた気がする。
個別ブースに案内される直前、瀬戸澄佳と目が合った。
一瞬だけ、彼女は何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わずに視線を戻した。
説明会で目立っていたイケメン、近衛亘一は、楽しげだった。貴族ロールが気に入ったらしく、周囲に軽口を叩いている。
「平安京なら、顔パスでいけそうだし?」
その言い方に、瀬戸がわずかに眉をひそめたのを、僕は見逃さなかった。
ブースに入り、カプセルに横たわる。
背中と後頭部に、柔らかい感触。装着具が固定される音が、やけに大きく聞こえる。
「深呼吸してください」
女性スタッフの声。機械的だが、丁寧だ。
目を閉じる。
最初は、光。次に、音。それから、重さ。
身体が、ここにあるのか、どこかに運ばれているのか、判断がつかなくなる。
――風の音がした。
目を開けると、そこは森だった。
人工的なほど整った森ではない。下草はまばらで、地面は固い。獣道のようなものが、いくつも交差している。
自分の手を見る。見慣れないが、確かに自分の手だ。
革の感触。腰には、簡素な刃物。
「……重い」
言葉が、自然に出た。声が、ちゃんと空気を震わせた。
歩くと、土の感触が足裏に返ってくる。少し湿っている。
ゲームだ、と思おうとする。でも、身体はそれを許さない。
ここでは、転んだら痛い。
それだけで、世界の意味が変わる。
視界の端に、薄く情報が浮かぶ。
探索可能範囲。痕跡。気配。
思ったよりも、静かだ。
――そのとき、胸の奥に、微かな違和感が走った。
寒気とも、興奮とも違う。ただ、「向こうを見ろ」と言われた気がした。
振り返ると森の奥、木立の隙間に、人影のようなものが、一瞬だけ見えた。
しかし、その影はすぐに消える。
ログイン直後の演出だろう。そう思おうとしたけど、その瞬間、どこからか声がした。
《……境に、立つもの……》
誰の声でもない。システム音でもない。ただ、世界の側から、そう言われた気がした。
心臓が、強く打つ。
その時点では、まだ名前は与えられていない。けれど、何かに見つかったような感覚だけは、はっきりと残っていた。




