残る感覚
庵の中は、思ったより暗かった。
外が白み始めていることに、僕はしばらく気づかなかった。土間に敷いた藁束から身体を起こして、ぼんやりと庵の上を伝う梁を見つめる。
「……夜、明けた?」
自分の声が、ひどく鈍く聞こえた。
瀬戸澄佳は、すでに床を出て、墨がうっすらと赤くなった火鉢の脇に座っていた。膝の上に手を置き、こちらを見ている。
「うん」
なんだか、元気がない。寝不足? 僕がいるから寝れなかったのかもしれない。そりゃそうだ、よく知らない男と同じ部屋で一緒になんて、そう簡単に眠れるものじゃない。そうだとしたら、申し訳ないことをした。
「早速、山に行くよ」
僕が、そういって身支度を整えようと起き上がると、彼女は制止するように声を出す。はっきと強く。
「待って!」
短く、そう言ってから、少しだけ言いにくそうに続ける。
「……二日、経ってる」
「え?」
僕は、思わず聞き返した。
「そんなわけないだろ。昨日――」
言いかけて、止まる。昨日、とはいつだ。山に入ったのが、昨日。転げ落ちたのが、昨日。ここに来たのが、昨日。全部、昨日だと思っているが、どの時点のことだ。ゲーム内で二日、それとも……。
「……冗談だろ」
瀬戸は、首を横に振る。
「満足くん、最後にログインしたのは何日目?」
僕は、しばらく言葉を失った。
「五日目……」
「今は、六日目の終わり、たぶんゲーム内の時間なら今日の夜には、ログアウトすることになる、普通なら」
胸の奥を探る。疲労は、ある。だが、極端じゃない。空腹も、渇きも、致命的なほどではない。
「……感覚、なかった」
正直な感想だった。
「だと思った」
瀬戸は、少しだけ視線を落とす。
「私も、最初は気づかなかった。でも、やっぱりおかしい気がした」
僕は、苦く笑った。
「そうか」
連続ログイン、おそらく現状では30時間以上ということになる。
その言葉が、今になってじわじわ効いてくる。
「……まずいよね」
「うん、まずいよ絶対」
瀬戸は、即答した。
「ちゃんと戻るべき」
僕は、息を吐いた。ここが永遠に安全なわけじゃないことも、もう分かっている。
「俺、ログアウトする」
瀬戸は、少しだけ間を置いてから言った。
「……心配だから。一応、私も」
僕は、瀬戸を見た。
「いいのか? 今日の残り時間、プレイできなくなるけど」
瀬戸は、庵の中を見回す。
「大丈夫。やれることはやってあるし。それに――」
言葉を探して、それから続ける。
「あなたが、戻れるかどうか。私も、確認したい」
僕は、その意味を理解した。彼女は、巫女としてではなく、同級生として言っている。
「……そっか」
短く、そう答える。
二人の間に、特別な合図はない。カウントもない。ただ、それぞれが、自然に準備する。
僕は、再び藁の寝床に横になる。視界の端で、瀬戸も同じように自分の寝床に入り込むのが見えた。
「……また、来るから」
独り言みたいに言うと、瀬戸は小さく頷いた。
「うん。ここは、逃げない」
その言葉を聞いて、僕は初めて、完全に力を抜いた。
ログアウトの感覚が、ゆっくりと重なる。今回は、特に邪魔も入らなかった。いつも通り、自然だった。
山の気配が遠のき、滝の音が薄れ、水の冷たさが消えていく。僕の中にいるあいつは、最後まで何も言わない。
そして――闇。暗転は、思ったより静かだ。音が消える、というより、音の意味がなくなる感じ。滝の轟きが、水の冷たさが、瀬戸の声が――、それらが「あった」という記憶だけを残して、手応えを失う。
次に目を開けたとき、天井は白かった。
見慣れたはずの、無機質な白。ライトの光が、やけに強い。
「……あ」
声を出そうとして、喉がひりついた。身体が、重い。さっきまでの山の重さじゃない。人間の身体の重さだった。指を動かすと、ちゃんと動く。胸に手を当てる。心臓が、規則正しく打っている。
「……戻った、のか」
誰に言うでもなく、呟く。時計を見ると、16時半になりかかったところ。つまり31時間、僕はログインし続けていたということだ。
瀬戸に言われるまで、まったく自覚がなかった。その時間が、今になって一気にのしかかってくる。
頭が、遅れて痛み出す。目を閉じると、山が浮かぶ。夫婦の気配。拒絶。「穢れを纏った神」という言葉。
そして胸の奥を探る。あいつは――いる。
そんな気がする。気のせいかもしれない。幻覚かもしれない。錯覚かもしれない。ただ、確かに、いる。だが、静かだ。いや、遠い。でも、存在は感じる。現実に戻っても。
「……やばいな」
誰に向けた言葉でもない。
瀬戸の張った優しい結界。水。あの場の空気が、ログアウトした今も、引きずって体の感覚にある。自分が、まだ向こうと切れていない感覚。それが、妙に現実的だった。
ベッドの横に置かれた端末。その通知ランプが点滅していた。
ただ今はまだ確認する気が起きない。数字や文字より、確かめたいことがある。
……戻れた。
その事実。逃げ切ったわけじゃない。解決したわけでもない。だが、戻れなくなる一線は、越えていないそれだけで、胸の奥が、少し緩む。
瀬戸は、どうしただろう。一緒に、ログアウトした。あれは、約束でも、契約でもない。ただの、判断の一致。
「……心配だから」
あの言い方が、妙に頭に残っている。巫女としてでも、取引相手としてでもない。同級生としての言葉。
僕は、ゆっくり息を吐いた。ここから先は、また別の地獄だ。検査。説明。問い詰め。近衛たちは僕をほっといてくれるだろうか。
久世からは逃げられないだろう。当然、色々聞いてくるだろうし、こちらも確認すべきことがある。ちゃんと話はしないといけない。そう思えたのは、初めてだった。
目を閉じる。今度は、意識を失うためじゃない。休むために。山の冷たさは、もうない。だが、水の流れる感覚だけが、まだ、胸の奥に残っていた。




