転落
空気が、急に変わった。
それまでまとわりついていた湿り気が消え、音が削がれ、胸の奥がきゅっと締まる。
……ここ、違う。
そう思った瞬間、視線が落ちてきた。
上でも、前でもない。左右だ。山そのものが、二つの意思でこちらを見ている。
男と女。理由は分からないけども、夫婦だと、はっきり分かった。
重なり合わない圧。寄り添うのに、混ざらない。僕はその中央に立っている――そう気づいたとき、胸の奥であいつが、意味を持とうとして脈打った。
問いが立つ。選別が始まる。
次の瞬間、怒りが山から降って来た。
声ではないが、確実に「言葉」だった。
『穢れを纏った神を、我らの領域に持ち込むな』
穢れを、纏った……神?
理解する前に、もう一つの意思が重なる。
『それは人の側で生まれ、人の側に留まるものだ』
夫婦の神威が、完全に一致する。
ここは、問いを抱える場所ではない。
山が、拒絶した。足元が消えた。
地面が崩れるのではない。場所そのものが、僕を弾いた。拒絶した。
そして転がる。
枝が体を打ち、石がまたそれを弾き、僕の視界が白くなる。
逃げた感覚はない。ただ、追い出された。
下へ、下へ。人の領域へ。
意識が途切れかけたとき、冷たい感触が、頬を打った。
水。沢だ。
次の瞬間、胸の奥が、すっと軽くなる。あいつの存在が、掴めない。
消えたわけじゃない。ただ、形を保てない。あいつからの問いが、流される。意味が、留まらないで、ただ下流に流されていく。
僕は、膝をついた。
息が、できる。視界が、戻る。滝の音がする。
そして、白い水の線の向こうに、人影があった。
――瀬戸澄佳。
白い装束は、沢の水を受けて、肌に張り付いている。
……あ。
不謹慎だと分かっているのに、目が、離れない。濡れた布越しに、身体の線がはっきり分かる。
肩。腰。胸のあたりが、特に。
水滴が、鎖骨を伝って落ちる。
瀬戸は、まだこちらに気づいていない。
両手を水に差し入れ、静かに、呼吸を整えている。
……禊。
祓っているというより、何かを通している感じだ。僕はそんな風に、直感的に理解した。
ここでは、問いは留まれない。
あいつの力は、留まれない。
「……瀬戸……」
掠れた声。滝音に紛れた、と思った。
だが、彼女は振り返る。
一瞬、何が起きているか分からない顔。
次に、僕の視線の先――、つまり自分の装束に気づく。
「あ……っ」
慌てて、腕を胸の前で交差させる。
顔が、一気に赤くなる。
「み、見ないで……!」
怒鳴るでもなく、責めるでもなく。
素の反応。
その仕草があまりにも普通で、山の神威も、追手も、僕の中のあいつも、全部、一瞬だけ、遠のいた。
「あ、いや、その……ごめん」
何を謝っているのか、自分でも分からない。
瀬戸は、視線を逸らしながら、濡れた袖をきゅっと絞る。
「……こんなところで、人が来るなんて……」
それから、ようやく気づいたように、僕の様子を窺うように見る。
「……大丈夫?」
その一言で、緊張の糸が切れた。
体から、力が抜ける。あいつは、まだ、いる。だが、ここでは暴れない。
山は、怒っている。だが、ここは山ではない。
水が、全部、持っていく。
「……ちょっと……ねえ、ねえって……」
瀬戸の声が、遠くなる。
僕は、沢の冷たさと、滝の音と、濡れた白装束の残像を最後に、――意識を、手放した。




