久世の上司
久世理沙は、端末の前から動いていなかった。
ログが、画面を流れている。
数値。
波形。
時間軸。
どれも、正常の範囲を外れている。
「……っ」
苛立ちを、舌打ちで飲み込む。
生体負荷。
精神応答。
自己認識。
どれを見ても、管理範囲のラインを越えている。
「強制ログアウト……」
指が、コマンドに伸びかけて止まった。
――まだ、戻れるかもしれない。
そう願う自分自身の躊躇が、彼女自身を苛立たせる。戻れるうちに、戻すべきだ。人間として。学生として。研究対象になる前に。
深く息を吸い込む。そして、警告ウィンドウを開く。
【強制切断プロトコル】
対象ID:M-TA-01
被験者:満足燈彦
実行条件:生体安全優先
久世は、実行キーに、指を触れた。
その瞬間。端末に、エラー表示が現れる。
そして、ほぼ同時に、通信要求のコールが鳴る。
発信元を確認した久世は、一瞬、目を閉じた。
「……はい」
映像が立ち上がる。
久流須隆明は、いつも通りの顔だった。白でも黒でもない、地味なスーツ。研究者にも、官僚にも見える中途半端さ。
四十五歳。だが、疲れはない。
「久世」
名前を呼ぶ声に、感情はない。
「今、切ろうとしたね」
問いではなかった。
「……はい」
久世は、はっきり答えた。
「対象は、チュートリアル段階を逸脱しています。生体負荷、精神応答、どれも安全域を外れている。このまま続行させるのは、研究倫理として――」
「――倫理?」
久流須が、言葉を遮る。
眉一つ動かさない。
「君は、彼が壊れていると判断したのか?」
久世は、言葉を選んだ。
「……壊れかけていると思います」
一拍。
「だから、戻れるうちに戻すべきだと」
久流須は、画面の外で何かを操作している。
「自我は?」
「保たれています」
「現実認識は?」
「あります」
「選択判断は?」
「……あります」
久流須は、そこで初めて久世を見た。
「では、なぜ切る?」
久世は、言葉に詰まった。
「それは……」
「危険だから?」
久流須は、淡々と言う。
「危険は、このプロジェクトの前提だ」
「壊れるかどうかではない」
画面越しに、久流須の視線が刺さる。
「戻れるかどうかだ」
久世は、歯を食いしばった。
「……彼は、人間です」
「知っている」
即答だった。
「だからこそだ」
久流須は、続ける。
「今、切断したら、どこまで行けたかが永久に分からなくなる。それは、研究としての損失だ」
「……研究、ですか」
久世の声が、わずかに震えた。
「国家ではなく?」
久流須は、少しだけ首を傾けた。
「国家は国家だ、研究とは関係ない」
久世は、画面から目を逸らした。
ログが、まだ流れている。
異常なまま。だが、応答は続いている。
「強制ログアウトは、許可しない。そもそも、それで戻ってこれるとも限らない。違うかね」
そう問われると久世にも確信はなかった。
「……」
久流須は、結論を告げた。
「観測を続けろ」
「……事故が起きたら」
「そのときは、私が責任を取る」
久世は、思わず画面を見た。
久流須の顔は、変わらない。
「君は、現場を見ていればいい」
「判断は、こちらでする」
通信が、切れた。
管制フロアに、静寂が戻る。
久世は、しばらく動かなかった。
実行キーは、まだ目の前にある。押せば、終わるはずだった。だが、もはや彼女にはその権限はなかった。
「……あなたは」
誰に向けるでもなく、呟く。
「人間を見てない」
ログの一行が、更新された。
対象ID:M-TA-01
被験者:満足燈彦
状態:接続継続
観測フェーズ:深化
久世は、画面を閉じなかった。閉じられなかった。その先で、何が起きるのか――もう、見届けるしかなかった。
明日から、投稿時間を18時に変えます。よろしくお願いいたします。




