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平安京エイリアンズ  作者: 岬口大鴉
【五日目】

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31/51

山中での叫び

 山に入った瞬間、音が消えた。

 正確には、音が意味を持たなくなった。

 

 風の音。枝の擦れる音。自分の足音。すべてが、同じ距離で鳴っている。

 僕は走っている。だが、どれくらい走っているのか分からない。

 息は荒い。肺が焼けるように痛む。

 水はない。阿武隈川から離れたことを、ここでようやく理解した。

 喉が、ひりつく。舌が、口の中に張り付いている。


「……っ」


 足が、もつれた。

 転びそうになるのを、何かが支えた。


……いや。


 支えたのは、自分の影だ。影が、先に地面に触れていた。

 僕は、立ち止まらなかった。立ち止まれなかった。止まった瞬間、追いつかれる気がした。

 誰に、かは分からない。

 近衛か。藤巻か。それとも――視界の端で、何かが動いた。

 人影。いや、違う。木だ。

 だが、次の瞬間、それが人に見える。


――美羽。


 胸が、強く脈打った。


「……っ」


 呼びかけそうになって、やめる。

 分かっている。幻覚だ。

 僕の中の何かが、まだ身体に絡みついている。思考は、残っている。判断も、できている。それでも、見えてしまう。美羽は、何も言わない。ただ、こちらを見ている。追いつけない距離で。


 僕は、歯を食いしばり、進路を変えた。上へ。尾根へ。水の音は、ない。地面は乾いている。苔が、踏むたびに粉を立てる。

 息が、浅くなる。足に、感覚がない。身体が、遅れてついてくる。影が、遅れている。それだけは、はっきり分かる。輪郭が、溶ける。木と、自分の境界が曖昧になる。自分が、どこまでなのか。世界が、どこからなのか。


「……戻れない、な」


 声が、木々に吸われる。ログアウトの感覚は、来ない。表示もされない。メニューも、警告も、選択肢も、ない。


……切断されている。


 いや、違う。こちらが、拒まれている感じだ。足が、少しずつゆっくりになる。歩幅が狭くなる。もう走ってはいない、歩いているかすら微妙だ。そして止まった。足が動かない。膝をついた。地面に、手をついた。

 乾いた土。冷たくも、清らかでもない。禊にはならない。喉が、鳴る。視界が、揺れる。影が、遅れて動いた。それを見て、僕は初めて、逃げるのをやめた。


「……なあ」


 声が、かすれる。

 返事なんて期待していない。ただの呼びかけ。だが、言葉は自然に続いた。


「お前は、何だ」


 胸の奥が、ざわつく。

 反応した。確かに。

 力。歪み。呪い。

 どれも、しっくりこない。


「僕は……」


 息を整えようとして、失敗する。


「僕は、誰かを傷つけたいわけじゃない」


 木々が、静かに揺れる。風ではない。間だ。


「それでも、お前は出てくる」


 影が、先に首を振った。否定ではない。確認のような動き。


「僕が怒ったからか」


 一拍。

 胸の奥で、何かが、応じた。声ではない。言葉でもない。だが、意味だけが、はっきりと届く。


――怒りではない。


 僕は、目を閉じた。


「じゃあ、何だ」


 影が、ゆっくりと伸びる。地面の起伏に沿って、本来ありえない形を取る。


――問いだ。


「問い……?」


喉が鳴る。


「誰の」


 一瞬、視界が揺れた。

 多賀城の夜。文書庫。竹簡。美羽の名前。

 信夫。安積。逃げる足。

 近衛の声。三好の薬。すべてが、一本につながる。


――世界の。


 笑いそうになった。


「……ふざけるな」


 声が、震える。


「世界が、僕に何を問うんだ」


 影が、止まった。

 そして、はっきりと返ってきた。


――耐えられるか。


一拍。


――選び続けられるか。


 息が、詰まる。


「……それに、僕を、使うのか、……僕で、……試すのか」


 返事は、すぐには来なかった。その沈黙が、答えだった。

 僕は、額を地面に押しつけた。冷たくもない。清らかでもない。ただの土。


「……汚れ、穢れ、だから何だ……」


 笑いとも、ため息ともつかない音が出る。


「僕が、耐えて、選び続ければいいんだな」


 影が、わずかに揺れた。肯定でも、否定でもない。事実として。ログアウトの感覚は、来ない。メニューも、選択肢も、戻る道も。


「……分かった」


 僕は、ゆっくりと身体を起こした。ふらつく。だが、倒れない。


「じゃあ、まだ歩くしかないな」


 水もない。救いもない。あるのは、問いを抱えたまま進む道だけだ。


 夜明けは、近い。だが、朝が来ても、何も終わらない。

 僕は、影を引きずるようにして、再び山の奥へ歩き出した。なんとなく戻れないことを、もう疑ってはいなかった。


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