山中での叫び
山に入った瞬間、音が消えた。
正確には、音が意味を持たなくなった。
風の音。枝の擦れる音。自分の足音。すべてが、同じ距離で鳴っている。
僕は走っている。だが、どれくらい走っているのか分からない。
息は荒い。肺が焼けるように痛む。
水はない。阿武隈川から離れたことを、ここでようやく理解した。
喉が、ひりつく。舌が、口の中に張り付いている。
「……っ」
足が、もつれた。
転びそうになるのを、何かが支えた。
……いや。
支えたのは、自分の影だ。影が、先に地面に触れていた。
僕は、立ち止まらなかった。立ち止まれなかった。止まった瞬間、追いつかれる気がした。
誰に、かは分からない。
近衛か。藤巻か。それとも――視界の端で、何かが動いた。
人影。いや、違う。木だ。
だが、次の瞬間、それが人に見える。
――美羽。
胸が、強く脈打った。
「……っ」
呼びかけそうになって、やめる。
分かっている。幻覚だ。
僕の中の何かが、まだ身体に絡みついている。思考は、残っている。判断も、できている。それでも、見えてしまう。美羽は、何も言わない。ただ、こちらを見ている。追いつけない距離で。
僕は、歯を食いしばり、進路を変えた。上へ。尾根へ。水の音は、ない。地面は乾いている。苔が、踏むたびに粉を立てる。
息が、浅くなる。足に、感覚がない。身体が、遅れてついてくる。影が、遅れている。それだけは、はっきり分かる。輪郭が、溶ける。木と、自分の境界が曖昧になる。自分が、どこまでなのか。世界が、どこからなのか。
「……戻れない、な」
声が、木々に吸われる。ログアウトの感覚は、来ない。表示もされない。メニューも、警告も、選択肢も、ない。
……切断されている。
いや、違う。こちらが、拒まれている感じだ。足が、少しずつゆっくりになる。歩幅が狭くなる。もう走ってはいない、歩いているかすら微妙だ。そして止まった。足が動かない。膝をついた。地面に、手をついた。
乾いた土。冷たくも、清らかでもない。禊にはならない。喉が、鳴る。視界が、揺れる。影が、遅れて動いた。それを見て、僕は初めて、逃げるのをやめた。
「……なあ」
声が、かすれる。
返事なんて期待していない。ただの呼びかけ。だが、言葉は自然に続いた。
「お前は、何だ」
胸の奥が、ざわつく。
反応した。確かに。
力。歪み。呪い。
どれも、しっくりこない。
「僕は……」
息を整えようとして、失敗する。
「僕は、誰かを傷つけたいわけじゃない」
木々が、静かに揺れる。風ではない。間だ。
「それでも、お前は出てくる」
影が、先に首を振った。否定ではない。確認のような動き。
「僕が怒ったからか」
一拍。
胸の奥で、何かが、応じた。声ではない。言葉でもない。だが、意味だけが、はっきりと届く。
――怒りではない。
僕は、目を閉じた。
「じゃあ、何だ」
影が、ゆっくりと伸びる。地面の起伏に沿って、本来ありえない形を取る。
――問いだ。
「問い……?」
喉が鳴る。
「誰の」
一瞬、視界が揺れた。
多賀城の夜。文書庫。竹簡。美羽の名前。
信夫。安積。逃げる足。
近衛の声。三好の薬。すべてが、一本につながる。
――世界の。
笑いそうになった。
「……ふざけるな」
声が、震える。
「世界が、僕に何を問うんだ」
影が、止まった。
そして、はっきりと返ってきた。
――耐えられるか。
一拍。
――選び続けられるか。
息が、詰まる。
「……それに、僕を、使うのか、……僕で、……試すのか」
返事は、すぐには来なかった。その沈黙が、答えだった。
僕は、額を地面に押しつけた。冷たくもない。清らかでもない。ただの土。
「……汚れ、穢れ、だから何だ……」
笑いとも、ため息ともつかない音が出る。
「僕が、耐えて、選び続ければいいんだな」
影が、わずかに揺れた。肯定でも、否定でもない。事実として。ログアウトの感覚は、来ない。メニューも、選択肢も、戻る道も。
「……分かった」
僕は、ゆっくりと身体を起こした。ふらつく。だが、倒れない。
「じゃあ、まだ歩くしかないな」
水もない。救いもない。あるのは、問いを抱えたまま進む道だけだ。
夜明けは、近い。だが、朝が来ても、何も終わらない。
僕は、影を引きずるようにして、再び山の奥へ歩き出した。なんとなく戻れないことを、もう疑ってはいなかった。




