夜明け前 安積郊外
空の色が、わずかに変わりはじめていた。黒ではない。だが、まだ朝とも言えない。一番、輪郭が曖昧になる時間帯だ。
僕は、川沿いの林を抜け、安積の外れに差しかかったところで足を止めた。
……来る。
音ではない。気配でもない。ただ確信はあった。
「そこまでにしとけよ」
背後から、声。振り返る前から分かっている。
近衛恒一。その両脇に、三好と国分。さらに奥に藤巻。NPCとは間合いの取り方が違う。隙が圧倒的に少ない。
ただ、逃げ道は、まだある。だが、もう遅いかもしれない。
「夜明け前に会うとはな」
近衛は、楽しそうに笑った。
「追ってきたわけじゃない。ただ、予想通りだっただけだ」
僕は、ゆっくり息を吐いた。
「つまり……偶然だろ」
「そう言ってもいい」
近衛は一歩、前に出る。
「でもさ」
近衛の視線が、僕を貫く。
「多賀城から消えて、信夫を抜けて、安積に来る理由がある人間って――」
一拍。
「限られてるんだよ」
僕は、何も答えない。
三好が、さりげなく位置をずらす。逃走経路を切る配置だ。
「で、聞きたいんだけど」
近衛は、軽い口調のまま続けた。
「矢代美羽は、見つかったか?」
安い挑発だが、僕への効果は抜群だ。
頭の中で、胸の奥で、何かが疼く。
「……見つからないさ」
声が、低くなる。そして、自分が発した言葉に反応して、さらに揺らぎが大きくなる。
「そうか、残念だな」
近衛は肩をすくめた。
「まあ、俺が代わりに探してやるから、お前はおとなしく牢につながれな」
視界の縁が、滲む。夜の色が、戻ってくる。影が、足元で遅れはじめた。
「……ふざけるな」
胸の奥が、熱を持つ
僕は、なんとか前に出ようとする。
その瞬間。一緒に、僕の中の何かも一緒に動く。
――目を覚ました。
世界の輪郭が、溶ける。林と、空と、地面の境が曖昧になる。僕の身体の縁も、同じだ。
「おい」
藤巻の声が、わずかに揺れた。近衛の笑みが、消える。
「……来たか」
もう僕は人を見ていない。見る必要がない。世界の歪みが、全部分かる。踏み出す。一歩で、距離が詰まる。
「止まれ!」
国分の声。だが、止まらない。
何かを吹き出すような風の音。次の瞬間、首筋に、鋭い痛みが走る。なにか冷たいものが、人工的な水が体に流れ込んでくる。
「今よ!」
三好の声だ。
世界が、ひっくり返る。熱が、急激に引く。だが、まだ消えない。流されるほどではない。
「……効いてるぞ!」
国分が声を上げるが、三好が打ち消すように叫ぶ。
「完全じゃない、あくまで時間稼ぎ!」
僕は、膝をついた。視界が、二重になる。
影は、まだ遅れている。輪郭も、戻らない。
だが、暴走は止まった。
国分と近衛が、僕に襲い掛かる。ただ、それをかわすくらいはできた。
「くそ……なんて速さだ」
国分が、歯を食いしばる。
「やっぱり、ただものじゃないな、その力……」
近衛は、なんだか嬉しそうに笑っている。
僕は、答えない。答えられない。そして今、やるべきことは一つ。
――逃げる。
地面を蹴った。吹き矢に塗られた薬が、力を抑えている。だが、僕の中の歪な力は、まだここにある。だから、人ではない動きができた。
林へ。山へ。木々の間に、溶ける。
「追うな!」
近衛の声が、背後で響く。それにこたえる国分。
「だが、山に入ったら厄介だぞ」
藤巻も制止する。
「だめだ、追えば、こっちが削られる」
僕は、振り返らない。
息が荒れる。視界が揺れる。
今、ログアウトできたらどれだけ楽だろうか。しかし、ログアウトを呼び出しても反応が返って来ない。
……できない。
システムの問題なのか、試験の運営上の問題なのか、緊急ログアウトもできないようだ。つまり、そういう状況ではないという判断なのだろう。
「……ちっ」
山の闇が、身体を包む。影は、まだ一致しない。輪郭は、まだ溶けたままだ。
僕は、歯を食いしばりながら、ただ前へ進んだ。また昨日と同じことをしている。それだけは、確かだった。
夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。
近衛はそんな後ろ姿を、闇の向こうへ消える影を、ただ見送る。
「……逃がしたか」
小さく、呟く。
「薬の効果はあった、次で仕留められるだろ」
藤巻が、そうフォローする。
三好が、息を整えながら言った。
「でも、あれを完全に抑えるなら、もっと沢山撃ち込まないと無理だよ」
「分かってる。千沙は薬を用意してくれ。吹き矢を使える兵隊の頭数は俺がそろえる」
近衛は、視線を山へ向けたまま呟く。
「だから――、次は、捕まえる」




