夜 安積近郊
水の音で、目を開けた。
川だ。阿武隈川である。夜だが、完全な闇ではない。月明かりが、水面を淡く照らしている。僕は、ゆっくりと身体を起こした。
……軽い。多賀城を出た直後の、あの鉛のような重さがない。
完全ではないが、僕の中の穢れの塊のような何か、その残滓は沈殿している。
「……ここなら」
立ち上がる。影を見る。一致している。輪郭も、溶けていない。
だが――何かあれば、また引きずり出される。それは分かる。
安積の町は、まだ寝ている。街道は避ける。川沿いを進む。
目的は、単純。信夫の集落でやったのと同じことをする。
三十年前、軍団から戻った人間を探し、その中で、「巫女見習い・美羽」を覚えている者がいるか聞く。覚えているものがいれば、今どこにいるか、何をしているかを尋ねる。それだけだ。
そんなに簡単じゃないだろうけど、信夫よりも人が多い。それに、今の僕は普通の旅の猟師にすぎない。普通にやれば、話ぐらい聞けるだろう。
そんな風に考えながら僕は、川の流れに沿って歩き出した。
逃げるためではない。隠れるためでもない。追いつくために。
安積の町は、思っていたよりも広かった。
多賀城ほどではないが、人が集まり、流れ、滞留する場所だということはすぐに分かる。川沿いには、小さな舟着き場。荷を下ろすための簡素な桟橋。夜でも、誰かが起きている。
僕は、影の濃い場所を選んで進んだ。灯りの下には出ない。音を立てない。
……探索スキルが、役に立っている。
それが、数値ではなく、身体感覚として分かる。
視線を感じる前に、気配に気づく。足音を聞く前に、間を取る。
だが、完全ではない。時折、背中に「見られているかもしれない」という感覚が貼りつく。追手か……。それとも、ただの疑心?
僕は、考えすぎないことにした。今は、とにかく情報だ。
川沿いの粗末な小屋。中から、咳払いが聞こえる。
僕は、ためらわず近づいた。
今度は、戸を叩かない。
「ごめんください……少し、このあたりのことでお尋ねしたいことがあるのですが」
戸の向こうで、動きが止まる。
「なんだ」
警戒しているのか、戸は開けてくれない。だが、別にそれでも構わなかった。
「三十年前に、このあたりにいましたか?」
「ああ、俺はずっとこの土地の者だ」
「そのころ、兵役には行かれていましたか?」
そう尋ねると、少し間があって、戸が開いた。
中年の男。初老には届かない。だが、兵役を終えた身体だ。
「こんな時間に、何だ」
警戒はあるが、恐怖はない。
「三十年前、多賀城から戻るとき、一緒に巫女見習いがいたと思うのですが。覚えてないですか」
男は、眉をひそめた。
「……何人か、いた」
「その中で、美羽という名の女を知らないですか」
男の視線が、僕の顔をなぞる。
「……誰だ、お前」
「旅の者ですが、母を探しています」
半分は嘘ではない。
男は、しばらく考え込み、やがて短く言った。
「聞いたことはある」
僕の呼吸が、わずかに深くなる。
「踊りをしてた娘だろ」
……一致。
「交代のあと、しばらくこの辺にいた」
「どこへ行ったか心当たりは」
男は、顎で西を指した。
「会津の方だ」
僕は、そこで初めて言葉を止めた。
「南ではなく、西へ? ……安積には、残らなかった?」
「残らなかったな」
即答だった。
「ここは、通り道だ」
僕は、礼を言い、少しだけ持っていた米袋を渡すと、小屋を離れた。
情報は、つながっている。真っすぐな道ではないけど、流れはある。
阿武隈川のほとりに腰を下ろし、僕は手を水に浸した。
冷たい。
胸の奥が、静まる。
「……やっぱり、効くな」
僕の奥には、まだ何かがいる。だけど、水の近くでは、大人しい。
そのときだった。
遠くで、馬の駆ける音。金属がふれ、こすれる独特の音。そして複数の足音。静かだが、訓練された動きだ。
僕は、即座に立ち上がり、川沿いの藪に身を沈めた。
見えない。だが、分かる。
……来ている。
ここまで、追ってきたか。それとも、最初から安積にいたのか。
息を殺し、川の流れと同調するように、ゆっくりと身をずらした。
今は、戦わない。あの変な力も使わない。
まだだ。夜は、もう少し続く。




