巫女の赴任先
満足燈彦という名前を、私は、思ったよりもはっきり覚えていた。
最初は、ただの同級生だった。同じ学年で、同じ講義を取っていて、成績表のどこかで名前を見かける程度の存在。
あのグループワークまでは。
彼は、積極的に話すタイプではなかった。議論の輪から、半歩引いた位置にいる。発言も少ない。
正直に言えば、最初、少し苛立っていた。
……やる気がないのだと思った。
けれど、発表の最後。彼が、まるで独り言のように付け足した考察、指摘。
その一言で、久世理沙の視線が、はっきりと変わった。
「鋭いわね」
その言葉とともに、講義は予定を外れ、彼の示した視点の解説で終わった。
私は、そのときの自分の感情を、まだうまく言葉にできていない。
悔しかったのか。腹が立ったのか。それとも――羨ましかったのか。
だから、市で彼を見かけたときも、声をかけるつもりはなかった。
なのに。「なんで、多賀城なの」あんな言い方をしたのは、完全に余計だったと、今は思う。
彼は特段、何も言い返さなかった。
あのグループワークのときと同じ、なんとなく聞いて、相槌を打っていた。
多賀城。境界。反乱の記憶。
説明しているうちに、私は妙な感覚を覚えていた。
……この人、私と話しながら、何か別のことを考えている。
そんな、感覚。
そして、昨日の夜、事件が起きた。
火事。正確には、火事未満の騒ぎ。
だが、多賀城では十分すぎる。私は、ほとんど同じようなことを彼に話した気がする。
「蝦夷の反乱ではないか」
そんな言葉が、武官たちの間で本気で飛び交った。
私は、遠巻きに様子を見ていた。神職として、「場の異変」を感じ取る役割だからだ。
空気が、歪んでいた。
煙の匂いだけではない。恐怖でもない。
――何かが、ずれている。
その中心に、彼の姿があったのかもしれない。けれど、私には見えなかった。
ただ、彼がいないことだけが、不自然に強く意識に残った。
一方で。近衛恒一は、動いていた。
いつものように余裕のある顔。だが、視線は鋭く、楽しんでいるふりの奥で、完全に状況を読んでいる。
「偶然じゃない」
近衛が、誰にともなくそう言ったのを、私は聞いている。
「誰かが、意図して動いた」
その言葉に、背筋が冷えた。
満足の顔が、脳裏をよぎる。
彼は、派手なことをする人間ではない。
けれど、やるときは、黙って踏み越える。そんな気がしてならなかった。
そして、期限。多賀城での一か月。チュートリアルと呼ばれていた時間。それが、終わる。
私は呼び出された。事務的な通達だった。
「磐椅山の麓にある神社へ向かってください。あなたは、そこで巫女として奉職することになります」
拒否権はない。相談でもない。
当然のように、「適性があるから」と付け加えられただけだった。
磐椅山。病悩山。噴火の記憶。封じられた神。
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
満足が向かうであろう場所と、自分が向かわされる場所が、奇妙に重なっている。
「……分かりました」
そう答えながら、私は一つだけ、はっきりと意識していた。
これは、偶然ではないと。
多賀城で起きた何かは、まだ終わっていない。そして――次にそれを受け止める役目が、自分に回ってきても何もおかしくないのだということを考える。
私は、静かに息を吐いた。
南を見る。そこに、何が待っているのかは分からない。
ただ一つ。満足燈彦という名前が、この先も、私の思考から消えることはないと――それだけは、確信していた。




