夜明け 信夫郊外
空が、白みはじめた。
霧がほどけ、山の輪郭が浮かび上がる。その瞬間、はっきりと分かった。
……終わる。
禍津日の気配が、薄れていく。引き潮のように、確実に。影が、遅れなくなった。腕の輪郭が、空気に溶けなくなった。
そして、その瞬間、懐に熱を感じる。その熱を発していたのは、小さな護符だった。
……これは。
――満足くんの境遇に少し思うところがあったので、よければもらって。
多賀城の市場で、瀬戸にもらったものだった。その護符は、まるで火にくべられたように真っ黒に焼け焦げていた。指で触れると、墨となった護符が、粉々になっていく。そして、それと同時に、体の重さが戻ってくる。
「……っ」
膝が、笑った。
視界が揺れる。身体の内側から、何かを一気に引き剥がされた感覚。力を使った、という実感はない。ただ、借りていたものを返されただけだ。
次の瞬間、強烈な疲労が押し寄せた。
息が浅くなる。足に、感覚がない。立っているだけで、意識が遠のく。
――ここで倒れたら、終わる。
追手が来る。絶対に。それは、分かっている。
この距離なら、普通は数日かかるはずだ。
ただ、誰がどんなスキルを持っているか、その能力はわからない。だから、今回、僕は最後でミスった。すぐにでも追手がくる。そう思うくらいで丁度いい。
僕は、歯を食いしばった。
「……動け」
身体に命令する。返事はない。
それでも、前に出る。
街道は避ける。視界がよすぎるし、人も多すぎる。兵も、巡回も、情報も集まる。
何処を行くか。ふらつく頭でそう考えていると、遠くにかすかに聞こえる音。せせらぎ。水の音。
――阿武隈川か。
ここを川沿いに南下すれば、郡山、つまり安積にたどり着けるはずだ。少し遠回りになるが、それでも隠れる場所には困らないし、迷うこともないはずだ。
そうして僕は、引き摺るように足をなんとか動かし、川音を頼りに進路を変えた。斜面を下り、草を掴み、転びそうになりながら進む。
何度も、立ち止まる。呼吸を整え、視線を巡らせる。追われている感覚は、まだ消えない。ただ、追手の姿はない。今は隠れることしかできない。
川に辿り着いたとき、僕はほとんど立っていられなかった。
水は冷たい。雪解けの名残だ。
膝をつき、手を浸す。その瞬間だった。胸の奥に残っていた、あのざらついた違和感が――薄れる。
「……」
僕は、もう一度、手を沈めた。
水は流れる。同じ場所に留まらない。触れても、すぐに形を変える。
……禊、か。
言葉が、自然に浮かぶ。そういえば、馬房のような自室で、体を拭うときもそうだった。夜の間、まとわりついていたものが、水に引き剥がされていく感覚。
完全に消えたわけじゃない。だが、押し込められたのは分かる。
「……効く、な」
小さく呟く。
水がある。逃げ場がある。そして――祓いがある。川を選んだのは正解だった。
日が昇るにつれ、疲労は増す。足がもつれる。何度も休む。草陰に身を伏せ、水に手を浸し、また進む。限界は、近い。だが、判断は間違っていない。
「……行けるとこまでだ」
安積までは、まだ遠い。だが、ここで止まるよりはましだ。
僕は、川の流れに沿って南へ向かう。いつ倒れるか分からない身体で、それでも――逃げることだけはやめなかった。
朝の光が、静かに背中を照らしていた。




