夜明け前 信夫
どれだけ走ったかはわからなかった。ただ、僕は無我夢中で走った。思いっきりバイクを走らせる、あの感覚に近かったように思うが、記憶はすでに圧縮されて不確かになっていた。
目の前に、その目的の集落が見えたとき、夜は、まだ終わりきっていなかった。
山影が濃く、霧が低い。信夫の集落は、多賀城とは違って灯りが少ない。それが、かえって助かった。
僕は、林の縁で足を止める。
息は荒れていない。心臓も、落ち着いている。なのに――自分が普通じゃないことだけは、はっきり分かる。
足元に落ちた影が、遅れて止まった。
僕は見ない。見る必要がない。見たところで、自分には分からないと理解している。代わりに、感覚を確かめる。
音は、ちゃんと聞こえる。地面の冷たさもある。空腹も、疲労も、確かにある。
……人間だ。
僕は、集落の外れで足を止めた。
胸の奥がざわついている。冷静ではいられない。だが、考えは途切れていない。
――逃げている。
――追われている。
――それでも、情報が要る。
団の交代。その入れ替えが三十年前、その頃に団にいた者、城を出た者。
条件は限られている。夜明け前に起きている者は、なおさらだ。
一軒、灯りの残る家があった。
戸の前に立った瞬間、足元の影が、遅れて止まる。
僕は、深く息を吸い、戸を叩いた。
一度。二度。
中で、何かが倒れる音。
「……誰だ」
初老の男の声。張りはあるが、警戒が混じっている。
「話がある」
それだけ言った。
戸が、わずかに開く。
男が、軍団帰りかどうかはわからない。ただ、兵役は税金みたいなものだ。それに、体つき。肩の角度。視線の置き方を見れば大体わかる。多分、経験者だろう。
だが、男の目は――僕を見て、止まった。
「……何だ、お前」
声が低くなる。距離を詰めた。
一歩。それだけで、男が後ずさる。
「三十年前の話だ」
僕は、彼の逃げ道を塞ぐ位置に立つ。今夜、自分がされていたことを、今は僕がやっている。意図していないのに、そうなった。
「多賀城から、軍団の交代で戻った連中のことを聞きたい」
「知らん」
即答だった。だが、視線が泳ぐ。
僕は、さらに一歩踏み込む。
霧が、二人の足元を流れる。影が、男のほうへ伸びた。
男の喉が鳴った。
「……名を言え」
「美羽」
それだけで、空気が変わる。男の顔から、血の気が引いた。
「……どこで、その名を」
「答えろ」
声を荒げていない。だが、圧が彼の逃げ場を塞いでいる。
男は、戸に背をぶつけるように下がった。
「……いた」
かすれた声。
「巫女だか、尼だかの見習いだ。踊りをしてた」
僕は、黙って聞く。
「俺たちの間で、少し……もてはやされていた。面白い女だって」
男の視線が、満足の肩越しに逸れる。
「……それ以上、何を知りたい」
「城を出たあとだ」
短く言う。
男は、歯を食いしばった。
「……交代のとき、一緒に出た。ここにもいたが、すぐに出ていった」
「どこへ」
沈黙。
霧の中で、何かが軋む音がした。
「……安積だ」
ようやく、吐き出す。
「南へ行った。他の何人かと一緒に」
それだけだった。
僕は、数拍、動かなかった。情報は、十分だ。
「……もういい」
男は、その言葉に安堵したように見えた。だが、すぐにそれが消える。
「お前……」
声が震えている。
「何だ」
男は、首を横に振った。
「いや……」
戸を閉める。内側から、荒々しく鍵が掛けられた。
僕は、その場を離れた。
背中に、視線が刺さる感覚がある。だが、振り返らない。
そしてやはり影が、遅れて動く。
「……安積、か」
次の目的地は、決まった。
この僕の中にいる何かは、まだ消えていない。だが、必要な分だけ――世界を歪ませた。
夜明けは、まだ遠い。




