呼び出し
夏休み前のキャンパスは、どこか浮ついていた。講義棟の廊下には、人が多いはずなのに、もう秩序は残っていない。単位の話と、帰省と、旅行と、バイト。そんな言葉だけが、湿った空気みたいに漂っている。
僕は、その流れから一歩外れたところに立っていた。正確に言えば、立たされていた。
「――座っていいわよ」
講義棟から、渡り廊下を渡った先の教員室が並ぶ棟。その一室で、日本神話学を担当する講師、久世がそう告げる。僕がドアを閉め、おとなしく腰掛けると、久世は、端末の画面に視線を戻した。机の上は異様に整っている。紙の資料はなく、置かれているのは端末とマグカップだけだ。
「何か、問題ありましたか」
自分の声が、少し乾いて聞こえた。心当たりがないわけではない。いや、むしろ、ありすぎる。
久世は端末を操作しながら、淡々と言った。
「あなたのレポート、半分以上AIに書かせたでしょう」
即答できず、沈黙した。否定する意味はないし、正直に言えば、それが何の罪になるのかも、僕にはよくわからなかった。
そもそも、今の時代にレポートを「書かせる」なんてナンセンスだ。どうしてもちゃんとテストしたいなら、口頭でやるべきだろうと僕は思っている。
「……はい」
「隠す気もないのね」
責める調子ではなかった。ただ、事実を確認しているだけの声。
「構わない、と言いたいところだけど、学内規定ではアウトよ。普通なら単位は不可、場合によっては指導対象」
胃の奥が、きゅっと縮む。
「ただ……」
その一言で、顔を上げてしまった。
久世はようやくこちらを見た。値踏みするような視線。怒ってはいないが、優しくもない。
「内容そのものは、悪くなかったよ。ちょっと、あぶないけど」
「……あぶない……ですか」
「国家史観を、神話を、制度として切り分けようとする書き方。今のこの国では、あまり歓迎されないのよね」
それは、かつて矢代美羽が言っていたことと同じだった。入学したばかりの頃、彼女は笑いながら、「言葉の選び方ひとつで、世界は敵になるよ」と言った。
「あなた、矢代さん、……矢代美羽さんを知っているわね」
心臓が、一拍遅れて鳴った。
「……はい」
「最近、見かけないけど、どうしてるか知ってる? 私のゼミに来てくれそうな気がしていたんだけど……ねぇ……」
そう言われて、改めて気づく。確かに、しばらく名前も姿も、目にも耳にもしていない。
「……しらないですね。キャンパスでもみないですし、連絡を取り合うような中ではないので……今は……」
そう僕が答えると、久世は「そう」とだけ言って端末を閉じ、少しだけ姿勢を崩した。
「単位の件だけど――見逃す方法がある」
突然、話題が変わる。しかも、なんだか胡散臭い。でも、断れる空気でもないのが困る。
「夏休み、予定は?」
「……特には」
「なら、いいバイトがあるのだけど。結構なお金になるわよ」
「なんですかそれ、別に……」
少し馬鹿にされた気がして、やんわりと断ろうとしたとき、久世はそれを遮るように告げる。
「矢代さんもやって……たんだけどね」
そういわれて、つい断る科白を飲み込んでしまう。
矢代美羽。
彼女は、まあ、一言でいえば「変人」だ。語彙が狭くて申し訳ないけど、まあ彼女を表する言葉として及第点はもらえるだろう。なんというか世界のぎりぎりで生きているみたいな人だ。
教師の評価も両極端だし、というか、すべての評価が両極端で、優か不可みたいなタイプだと思う。ちなみに入学直後の僕にとっては衝撃だった。
そんな憧れの先輩である彼女に、いきなり「私たちつきあう?」なんて言われた僕は舞い上がった。
しかしながら、夢はすぐに夢に終わる。その一か月後、突然、別れ話をされたと思ったら、翌日には別の男と付き合いだした。僕にとっては黒歴史的存在である。
そんな彼女がやっていたバイトと聞かされ、やはり「面白そう」と思ってしまうのが僕の感性なのだ。
久世は、研究室に拘束されるタイプのバイトだと言った。光通信と感触伝達技術を使った、長時間VRの実験。家ではできない。だから、泊まり込みに近い形式になる。
「合宿免許みたいなものよ。拘束時間は長いけどね」
軽い口調だった。あまりにも軽くて、逆に現実味がないのが怖い。
「それで……単位は?」
「今回は、不問にしてもいいわ。ちゃんと仕事してくれたらね」
取引だ。そう理解した瞬間、不思議と冷静になれる。
「あと一つ、条件があるわ」
久世は言った。
「キャラクター選択は、こちらの指定に従ってもらう」
「指定?」
一瞬、頭に浮かんだのは、美羽の言葉だった。
――境界に立つ人は、長く生きられない。
「……どうゆうことですか?」
「察しが悪いわね。キャラ設定は私に一任するってことよ」
そういうと久世は何やら楽しげに笑みを浮かべていた。
「矢代美羽のキャラ設定も先生が決めたんですか?」
何かを考える前に、そう口が動いていた。
「う~ん、どうだったかな。でも、彼女はどこにいても、どんな設定でも彼女よ」
「……そうでしたね」
久世にそう言われると、自然と彼女の奔放な人柄が思い浮かぶ。勝手な人だけど、思い浮かぶ彼女の顔は、いつもやはりいたずらっぽく笑う顔だ。
「やらせてください」
久世は少しだけ、目を細めた。それが安堵なのか、諦めなのかは、わからない。
「じゃあ、詳細は後日。あんまり固く考えないで。これは、……そうそう、よくある学生のひと夏の体験よ」
研究室を出たとき、ついため息をつく。安心感と面倒くささと、ちょっとした期待。
廊下のざわめきが戻ってきた。誰もが、夏休みの話をしている。その中で、僕だけが、どこか別の季節に足を踏み入れてしまったような気がしていた。




