プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
深夜の研究棟は、昼間とは別の建物のようだった。人の気配が消え、空調の低い唸りと、サーバーラックの冷却音だけが、規則正しく残っている。
久世理沙は研究室の照明を最低限に落とし、端末の前に座っていた。机の上に紙の資料はない。すべてがログであり、数値であり、状態遷移だった。
被験者一覧の中で、ひとつだけ、視線を引く行がある。
ID:M-TA-01
被験者:満足燈彦
状態:――
数分前までは、確かに「プレイヤー」と表示されていた。ログアウト不能でも、強制終了でもない。ただ、分類が消えている。
カーソルを合わせても、補足情報は出ない。
「……この遷移、前にも見たわね」
久世は、別ウィンドウを開く。過去ログ。回収不能となった被験者の記録。
ID:F-TA-08
被験者:矢代美羽
状態:回収不能
胸の奥に、鈍い重さが落ちた。
偶然ではない。そう判断するには、まだ早い。だが、同じ兆候が二度出た時点で、これは「想定外」から「事象」になる。
『平安京エイリアンズ』は、開発段階のVRだ。光通信と感触伝達技術を組み合わせた、長時間・高没入型実験。家庭環境ではなく、研究室に拘束して行う形式なのも、すべて管理のためだった。
学生にとっては、少し変わった夏のバイト。拘束時間は長いが、ギャラはいい。治験バイト、いや合宿免許みたいなものだ、と説明してきたし、その説明は嘘ではない。
久世は、満足燈彦のプレイログを呼び出す。
選択キャラクター:猟師/蝦夷
「……よりにもよって」
短絡的だが、彼らしいと思って選んだ。楽しい役割ではないが、向いているだろう。文明の外縁を歩く設定だ。
ログを追うにつれ、違和感ははっきりしてくる。本来、開放されない選択肢が増えている。環境反応が、異常に濃い。
そのとき、別室のモニターから、音声ログが流れた。NPCの発話だ。
《……あれは、禍津日の気配でございます》
久世の指が、止まる。
続く記録には、同時参加していた別の被験者の反応が添えられている。言葉の意味を理解した瞬間、行動ログが変化している。
名が与えられた。現象に。
久世は、深く息を吐いた。
想定内だ。ここで即座に停止措置を取るほどではない。まだ、制御範囲内――そう信じる根拠も充分だ。ただ、嫌な予感がする。
彼女は、満足の学生データを開く。最近、呼び出したばかりの名前。
半分はAIに書かせた形跡のある、ふざけたレポート。それでも、国家史観や神話を「構造」として扱おうとする、危うい鋭さがあった。
「……境界に立つ、か」
偶然ではない。そう思ってしまう自分がいる。
久世は、端末を閉じた。
責任は、感じている。だからこそ、自分の目の届く範囲で対処する。これは事故ではない。だが、事件と呼ぶには、まだ早い。――少なくとも、今は。




