【超短編小説】がちゃん
誰のせいでもなく眠れない夜が来た。
ベランダに出た可笛 韻太郎は急速に冷えていくマグカップを両手で包み込んだ。
中に淹れられたコーヒーが微かに暖かいが、マグカップの表面は既に冷たくなっている。
立ち昇る湯気と韻太郎の吐く息が交差してぐるぐると渦巻いて消えた。
その煙の中で韻太郎は死にたくなった。
韻太郎が立つベランダから誰もいない交差点が見えた。
赤い光や青い光だけが、マンションたちの暗い窓に反射して眩しい。
韻太郎がぼんやりと信号を眺めていると、赤と青の向きが入れ替わって四回目くらいで、過積載の空き缶を運ぶ妖精の自転車が月明かりの下を行くのが見えた。
誰も歩かない夜更けの街だ。
夜の影はまだ伸び続けている。
切った爪の様に薄い月が濃紺色をした空に白濁と光っていて、やはりそれは、眠れない夜なのだと韻太郎は思った。
過積載の自転車を押した妖精は、青く光る横断歩道に踏み出した。
そして渡り切った瞬間に転んだ。
群青色の街に空き缶が散らばる音が響いた。
その音は硬く、マンションに響く音がどこまでも冷たかった。
韻太郎は身じろぎもせずに見ていると、薄汚れた妖精は舌打ちもせずに立ち上がった。
そして散らばった空き缶を拾い始めた。
まるで現代の落ち穂拾いで、見ている韻太郎の肉体が羞恥と苛立ちで熱くなった。
今すぐ目を逸らすべきだ、韻太郎はそう思った。
このマグカップを置いて駆け寄れないのなら、ここから彼を眺める権利なんて無いはずだ。
だが韻太郎はそうしない。
でも妖精が見えているだけ韻太郎はマシだ。
世界が歪んでいるのはそう言った自己愛の所為だと分かっていたし、そんな自己都合の正義が薄汚れた妖精を救ったりはしないのも知っていた。
落穂拾いの妖精。過積載の自転車。外れたチェーン。
散らばった空き缶を拾う手の痛みが、冷たい空気を通して韻太郎に伝わる気すらした。
妖精が拾い集める踏み潰されて小さく畳まれた祈りや願い。
または小さな幸せ。
そうでなければそれは絶望と諦めだ。
羨望に至るまでの想像力すら無く引きずる、擦り切れた願いだ。
韻太郎はマグカップの中身を飲み干した。
それは全てが韻太郎のナレーションだ。韻太郎の言い訳だ。身勝手な自己救済だ。
それは妖精の言葉でもないし、それは韻太郎の体験でもない。
身勝手な恥知らずの言葉遊び。
空き缶を拾い終わった妖精の滅びの美学を嘲笑う妖精が放つ尿は赤と青の不健康なビタミンカラーだ。
韻太郎はマグカップを窓の縁に置いた。
恥の上塗り。薄汚れた存在。
妖精はまだ人間だったその頃に、見た景色の事をここから、勝手にも考える、
それが愧でなくてなんなのか。
彼が幸福や願いや諦観をその手に缶を開けた時代を想像して何になるのか。
韻太郎がさっきまで人間であった様に、薄汚れた妖精にも名前があった時期がある。
親だとか友人だとかと過ごした幸福な瞬間があるはずだ。
錯覚でも良いからそうあるべきだ。
その願いこそが自分の救いになる。
ヒトトシテ……!!
夜の内、夜の間にヒトに成る、戻る、還るんだ、焦りと愧が締め付ける、喉の奥から、細い息、漏れて、出る。
薄汚れた妖精が振り向いた。
韻太郎は目が合ったと思った。
「本当は見えちゃダメなんだ」
薄汚れた妖精の声が聞こえた気がした。
韻太郎は恥ずかしくなった。
動揺して動かした手が当たり窓の縁からマグカップが落ちた。




