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素直じゃない、お隣さんとの境界線  作者: haka


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7/10

7 夜風の境界線

校という場所には、目に見えない幾重もの階層が存在する。  鳳条凛という少女は、その最上階に君臨する象徴だ。彼女が廊下を歩けば自然と道が開け、彼女が微笑めば凍りついた空気が華やぐ。そんな彼女と、校舎の隅で背景の一部として息を潜めている俺とでは、本来なら交わるはずのない座標に生きている。


 だが、その階層意識は、夕暮れのマンションの廊下で静かに形を変えつつあった。


 その日の夜、俺はゴミを出しに共有のゴミステーションへ向かった。  夜の冷気が、薄手のジャージ越しに肌を刺す。街灯がまばらな住宅街の静寂。そこで俺は、思いがけない光景を目にした。


 マンションの駐輪場。その隅にある自販機の横で、鳳条が一人、しゃがみ込んでいた。  足元にはレジ袋が散らばっている。どうやら買い出しの帰りに袋が破れたらしく、リンゴや玉ねぎがコンクリートの上を無残に転がっていた。


「……何してるんだ、お前」 「如月君」


 俺の声に、鳳条が顔を上げた。街灯に照らされた彼女の顔は、学校での氷のような冷静さは影を潜め、途方に暮れた子供のように困惑していた。  彼女は慌てて散らばった食材を拾い集めようとするが、破れた袋からは次々と中身がこぼれ落ちていく。


「……見ないでください。袋の強度が十分ではなかっただけですから。すぐ拾いますので、大丈夫です」


 必死に落ち着きを装っているが、声には焦りが混じっている。大丈夫と言いながらも、彼女の手元では再び玉ねぎが転がり、自販機の下へと消えそうになっていた。


「大丈夫に見えないけどな。お前の部屋、三階だろ。これ全部抱えて上がるのかよ」


 俺はため息をつき、自分の持っていた予備の袋を広げた。  黙って横に並び、地面に転がった野菜を拾い上げる。土のついたジャガイモを彼女がそっと手に取るのを見て、俺はそれを奪うようにして袋に入れた。


「いいです、本当に。如月君に手間をかけさせるわけにはいきません。早く部屋に戻ってください」 「手間ってほどじゃないだろ。お前、さっきから同じ玉ねぎを三回くらい落としてるぞ。これじゃいつまで経っても終わらないだろ」


 鳳条は、ぐっと言葉を詰まらせて俯いた。  彼女の指先が、寒さのせいか、それとも自分の不手際への苛立ちからか、小刻みに震えている。学校ではあんなに凛々しく、何でも一人でこなしているように見える彼女が、暗い駐輪場でたかがポリ袋一枚に振り回されている。そのアンバランスさが、俺の胸の奥を妙にざわつかせた。


「重いのは俺が持つから。いいだろ、お隣さんなんだから」 「……すみません。お言葉に甘えさせていただきます。ですが、これはあくまで、その……非常事態ですので」


 どこまでも意地っ張りだ。けれど、その震える指先を見てしまうと、そんな言葉すら「必死に平静を保とうとする彼女なりの防衛本能」に見えて、なんだか毒気を抜かれてしまう。


 俺は彼女の荷物をまとめ、二つの袋に分けた。  エレベーターの中、沈黙が支配する。鏡張りの壁に映る俺たちは、ひどく不釣り合いだった。ジャージ姿の俺と、私服になってもどこか品のある彼女。  三階に着き、彼女の部屋の前で荷物を渡そうとした時だった。鳳条が、袋の中の食材をじっと見つめて口を開いた。


「……如月君。この食材、今日中に使ってしまわないと傷んでしまうものが多いんです」 「そうなのか」 「ええ。ですから……その、お礼と言うのも変ですが、あなたのキッチンを貸していただけませんか。一人分を作るのも、二人分を作るのも、手間は変わりませんので」


 彼女なりの、精一杯の「借りを返すための口実」なのだろう。  俺は少し迷ったが、彼女のどこか強張った視線に負け、「……まあ、お前がいいなら」と頷いた。


 数分後、彼女は俺の部屋のキッチンに立っていた。  これで、何度目だろうか。彼女が俺の狭いキッチンを我が物顔で使い、手際よく料理を始める。    俺はリビングのソファに座り、野菜を刻む規則正しい音を聞いていた。  学校の教室。誰にも心を開かず、完璧な壁を築いている彼女。  今の彼女から放たれるのは、そんな冷徹なオーラではなく、生活の、どこか温かい匂いだった。


「如月君。味の好みを聞いていませんでした。……濃い味付けは避けた方がいいですよね、まだ病み上がりなのですから」 「いや、もう熱はないし、普通でいいよ。お前が美味しいと思う味にしてくれ」 「……そうですか。では、私の基準で作らせていただきます」


 彼女は背を向けたまま答えた。その声はいつもより少しだけ低く、落ち着いているように聞こえた。


 出来上がったのは、鶏肉のソテーに、たっぷりの温野菜。  俺の適当な暮らしでは絶対に出てこない、色彩の豊かな食卓だ。


「いただきます」 「……どうぞ。お口に合うかは分かりませんが」


 一口食べると、香ばしい醤油の香りと、肉の旨味が広がる。  彼女は俺が食べる様子を、箸を動かさずにじっと見つめていた。その視線があまりに真剣で、俺は少し気恥ずかしくなった。


「うまいよ。お前の料理は、なんていうか……丁寧な味がする」 「……丁寧、ですか。褒め言葉として受け取っておきます」


 鳳条はそう言って、ようやく自分も食事を始めた。  テレビの音だけが流れるリビング。  他人と食事をする。それだけのことが、こんなにも部屋の空気を変えるものなのか。  俺の平坦だった毎日に、彼女という異物が混ざり込み、少しずつ体温が上がっていくのを感じる。


「……なあ、鳳条。お前、学校ではあんなにツンとしてるのに、なんで俺なんかに構うんだよ。荷物を運んだお礼にしても、毎日料理まで作るのはやりすぎだろ」


 俺の問いに、彼女は箸を置いた。  俯いた拍子に、長い髪がさらりと肩からこぼれ落ちる。


「……自分でも、よく分かっていないんです。ただ、如月君は……私を『鳳条凛』としてではなく、ただの不器用な隣人として扱うので。それが、少しだけ……気が楽なのだと思います」


 言葉の続きは、夜の静寂に溶けた。  彼女はそれ以上何も言わず、残った料理を丁寧に口へ運んだ。    学校では、誰もが彼女を仰ぎ見るか、遠巻きにする。  そんな彼女にとって、駐輪場で玉ねぎを拾ってやるような、俺の「当たり前」の無遠慮さが、あるいは居心地がいいのかもしれない。


 食事を終え、彼女は「片付けは私がします」と頑なに食器を洗い、ようやく自分の部屋へ帰る準備を整えた。  玄関先で、彼女は一度だけ振り返る。


「……明日は、学校の食堂で済ませるつもりですか?」 「え? ああ、そうなるかな。パンとか」 「……そうですか。では、おやすみなさい」


 少しだけ、何かに期待したような、あるいは落胆したような。そんな曖昧な表情を残して、彼女は扉を閉めた。    一人になった部屋。  そこには、ついさっきまで彼女がいたという確かな熱が残っていた。    俺は窓を開け、夜の空気を取り込んだ。  明日もまた、学校へ行けば彼女は「高嶺の花」に戻る。  けれど、俺は知っている。彼女が玉ねぎを落として困っていたこと。  俺のために、少しだけ照れながらソテーを焼いてくれたこと。    その共有された秘密が、俺の胸の奥で、静かに、けれど消えることのない火を灯していた。

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