7 夜風の境界線
校という場所には、目に見えない幾重もの階層が存在する。 鳳条凛という少女は、その最上階に君臨する象徴だ。彼女が廊下を歩けば自然と道が開け、彼女が微笑めば凍りついた空気が華やぐ。そんな彼女と、校舎の隅で背景の一部として息を潜めている俺とでは、本来なら交わるはずのない座標に生きている。
だが、その階層意識は、夕暮れのマンションの廊下で静かに形を変えつつあった。
その日の夜、俺はゴミを出しに共有のゴミステーションへ向かった。 夜の冷気が、薄手のジャージ越しに肌を刺す。街灯がまばらな住宅街の静寂。そこで俺は、思いがけない光景を目にした。
マンションの駐輪場。その隅にある自販機の横で、鳳条が一人、しゃがみ込んでいた。 足元にはレジ袋が散らばっている。どうやら買い出しの帰りに袋が破れたらしく、リンゴや玉ねぎがコンクリートの上を無残に転がっていた。
「……何してるんだ、お前」 「如月君」
俺の声に、鳳条が顔を上げた。街灯に照らされた彼女の顔は、学校での氷のような冷静さは影を潜め、途方に暮れた子供のように困惑していた。 彼女は慌てて散らばった食材を拾い集めようとするが、破れた袋からは次々と中身がこぼれ落ちていく。
「……見ないでください。袋の強度が十分ではなかっただけですから。すぐ拾いますので、大丈夫です」
必死に落ち着きを装っているが、声には焦りが混じっている。大丈夫と言いながらも、彼女の手元では再び玉ねぎが転がり、自販機の下へと消えそうになっていた。
「大丈夫に見えないけどな。お前の部屋、三階だろ。これ全部抱えて上がるのかよ」
俺はため息をつき、自分の持っていた予備の袋を広げた。 黙って横に並び、地面に転がった野菜を拾い上げる。土のついたジャガイモを彼女がそっと手に取るのを見て、俺はそれを奪うようにして袋に入れた。
「いいです、本当に。如月君に手間をかけさせるわけにはいきません。早く部屋に戻ってください」 「手間ってほどじゃないだろ。お前、さっきから同じ玉ねぎを三回くらい落としてるぞ。これじゃいつまで経っても終わらないだろ」
鳳条は、ぐっと言葉を詰まらせて俯いた。 彼女の指先が、寒さのせいか、それとも自分の不手際への苛立ちからか、小刻みに震えている。学校ではあんなに凛々しく、何でも一人でこなしているように見える彼女が、暗い駐輪場でたかがポリ袋一枚に振り回されている。そのアンバランスさが、俺の胸の奥を妙にざわつかせた。
「重いのは俺が持つから。いいだろ、お隣さんなんだから」 「……すみません。お言葉に甘えさせていただきます。ですが、これはあくまで、その……非常事態ですので」
どこまでも意地っ張りだ。けれど、その震える指先を見てしまうと、そんな言葉すら「必死に平静を保とうとする彼女なりの防衛本能」に見えて、なんだか毒気を抜かれてしまう。
俺は彼女の荷物をまとめ、二つの袋に分けた。 エレベーターの中、沈黙が支配する。鏡張りの壁に映る俺たちは、ひどく不釣り合いだった。ジャージ姿の俺と、私服になってもどこか品のある彼女。 三階に着き、彼女の部屋の前で荷物を渡そうとした時だった。鳳条が、袋の中の食材をじっと見つめて口を開いた。
「……如月君。この食材、今日中に使ってしまわないと傷んでしまうものが多いんです」 「そうなのか」 「ええ。ですから……その、お礼と言うのも変ですが、あなたのキッチンを貸していただけませんか。一人分を作るのも、二人分を作るのも、手間は変わりませんので」
彼女なりの、精一杯の「借りを返すための口実」なのだろう。 俺は少し迷ったが、彼女のどこか強張った視線に負け、「……まあ、お前がいいなら」と頷いた。
数分後、彼女は俺の部屋のキッチンに立っていた。 これで、何度目だろうか。彼女が俺の狭いキッチンを我が物顔で使い、手際よく料理を始める。 俺はリビングのソファに座り、野菜を刻む規則正しい音を聞いていた。 学校の教室。誰にも心を開かず、完璧な壁を築いている彼女。 今の彼女から放たれるのは、そんな冷徹なオーラではなく、生活の、どこか温かい匂いだった。
「如月君。味の好みを聞いていませんでした。……濃い味付けは避けた方がいいですよね、まだ病み上がりなのですから」 「いや、もう熱はないし、普通でいいよ。お前が美味しいと思う味にしてくれ」 「……そうですか。では、私の基準で作らせていただきます」
彼女は背を向けたまま答えた。その声はいつもより少しだけ低く、落ち着いているように聞こえた。
出来上がったのは、鶏肉のソテーに、たっぷりの温野菜。 俺の適当な暮らしでは絶対に出てこない、色彩の豊かな食卓だ。
「いただきます」 「……どうぞ。お口に合うかは分かりませんが」
一口食べると、香ばしい醤油の香りと、肉の旨味が広がる。 彼女は俺が食べる様子を、箸を動かさずにじっと見つめていた。その視線があまりに真剣で、俺は少し気恥ずかしくなった。
「うまいよ。お前の料理は、なんていうか……丁寧な味がする」 「……丁寧、ですか。褒め言葉として受け取っておきます」
鳳条はそう言って、ようやく自分も食事を始めた。 テレビの音だけが流れるリビング。 他人と食事をする。それだけのことが、こんなにも部屋の空気を変えるものなのか。 俺の平坦だった毎日に、彼女という異物が混ざり込み、少しずつ体温が上がっていくのを感じる。
「……なあ、鳳条。お前、学校ではあんなにツンとしてるのに、なんで俺なんかに構うんだよ。荷物を運んだお礼にしても、毎日料理まで作るのはやりすぎだろ」
俺の問いに、彼女は箸を置いた。 俯いた拍子に、長い髪がさらりと肩からこぼれ落ちる。
「……自分でも、よく分かっていないんです。ただ、如月君は……私を『鳳条凛』としてではなく、ただの不器用な隣人として扱うので。それが、少しだけ……気が楽なのだと思います」
言葉の続きは、夜の静寂に溶けた。 彼女はそれ以上何も言わず、残った料理を丁寧に口へ運んだ。 学校では、誰もが彼女を仰ぎ見るか、遠巻きにする。 そんな彼女にとって、駐輪場で玉ねぎを拾ってやるような、俺の「当たり前」の無遠慮さが、あるいは居心地がいいのかもしれない。
食事を終え、彼女は「片付けは私がします」と頑なに食器を洗い、ようやく自分の部屋へ帰る準備を整えた。 玄関先で、彼女は一度だけ振り返る。
「……明日は、学校の食堂で済ませるつもりですか?」 「え? ああ、そうなるかな。パンとか」 「……そうですか。では、おやすみなさい」
少しだけ、何かに期待したような、あるいは落胆したような。そんな曖昧な表情を残して、彼女は扉を閉めた。 一人になった部屋。 そこには、ついさっきまで彼女がいたという確かな熱が残っていた。 俺は窓を開け、夜の空気を取り込んだ。 明日もまた、学校へ行けば彼女は「高嶺の花」に戻る。 けれど、俺は知っている。彼女が玉ねぎを落として困っていたこと。 俺のために、少しだけ照れながらソテーを焼いてくれたこと。 その共有された秘密が、俺の胸の奥で、静かに、けれど消えることのない火を灯していた。




