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素直じゃない、お隣さんとの境界線  作者: haka


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6 高嶺の花の、知られざる聖域

週末のマンションは、平日の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。  俺は自分の部屋のソファに深く腰掛け、手持ち無沙汰にテレビの画面を眺めていた。風邪はすっかり良くなったが、一度鳳条に整えられた生活のリズムは、そう簡単には元に戻らない。一人で食べるコンビニ飯の味気なさを知ってしまった以上、かつての無頓着な暮らしはどこか色褪せて見えた。


 そんな時だった。スマートフォンの画面が短く光り、一通のメッセージが届く。


『食材を、少し買いすぎてしまいました。もしよければ、お夕飯を手伝ってくれませんか。余らせてしまうのはもったいないので』


 送り主は鳳条凛だ。これまでの突き放すような物言いに比べれば、随分と弱気な、迷いの見える文面だった。断られるのが怖いのか、あるいは単に誘い慣れていないのか。どちらにせよ、その必死な行間を読んでしまった以上、行かないという選択肢はなかった。


 隣の部屋の前に立つ。自分の部屋と同じはずのドアなのに、そこには見えない結界が張られているような緊張感があった。意を決してインターホンを押すと、ほどなくして扉が開く。


「あ……。本当に、来てくれたんですね」


 現れた鳳条は、眼鏡にゆるいスウェットという、驚くほど無防備な格好をしていた。学校での一分の隙もない彼女を知る者がこれを見れば、卒倒するに違いない。  しかも、彼女の表情にはいつもの余裕がなく、所在なげに指先をいじっている。


「どうぞ。あまり、おもてなしはできませんが」


 促されるままに踏み込んだ彼女の部屋は、俺の殺風景な四畳半とはまるで別世界だった。  壁一面を埋め尽くすほどの本棚には、難解そうな哲学書や文芸書が几帳面に並んでいる。しかし、その完璧な書斎のような空間の片隅に、不自然な塊があった。


「鳳条、これ」 「あっ、見ないでください……!」


 彼女が慌てて隠そうとしたのは、大きなサメのぬいぐるみだった。しかも、一つではない。ソファの上にも、ベッドの隅にも、愛嬌のある顔をした海洋生物たちが生息していた。  学校での冷徹な彼女と、サメのぬいぐるみに囲まれる彼女。そのあまりのギャップに、俺は思わず口元が緩む。


「笑わないでください。……ただの、趣味ですから。誰にも迷惑はかけていません」 「笑ってないよ。ただ、お前にもこういう普通のところがあるんだなと思って」 「普通、ですか。私は……普通にしているつもりなのですが、周囲にはそう見えないようで」


 彼女は少しだけ寂しそうに微笑むと、キッチンへと戻っていった。  並べられた夕食は、作りすぎという言葉通り、豪華なものだった。鶏肉のソテーに、彩り豊かなサラダ、そして野菜たっぷりのスープ。


「座ってください。……お口に合うか、少し自信がないのですが」


 俺たちは向かい合って、箸を動かし始めた。学校での彼女は常に「正解」を叩き出す存在だが、今の彼女は俺が肉を一口運ぶたびに、期待と不安の入り混じったような視線をチラチラと向けてくる。


「……どう、でしょうか」 「美味いよ。昨日の弁当も思ったけど、鳳条は本当に料理が上手いな」 「……そうですか。よかった。もし口に合わなかったら、どうしようかと」


 鳳条は目に見えてホッとしたように肩の力を抜いた。眼鏡が少しだけ曇り、彼女はそれを直すふりをして視線を逸らした。  その時、ふと本棚の横に飾られた一枚の写真が目に入った。小学生くらいの鳳条が、今よりもずっと硬い表情で、バイオリンを抱えて立っている。その隣には、彼女によく似た、けれどさらに厳格そうな大人の女性の姿があった。


「お前、昔から大変だったんだな」 「……何のことですか」 「いや、なんとなく。高嶺の花でいるのも、楽じゃないだろうと思ってさ。期待されるのって、疲れるだろ」


 鳳条は箸を止め、じっと自分の皿を見つめた。  学校での彼女は、常に誰かの手本であり、理想でなければならない。失敗は許されず、隙を見せることもできない。そんな彼女にとって、このサメに囲まれた部屋だけが、唯一、鳳条凛という重圧から解放される場所なのだろう。


「如月君こそ。どうして、私なんかに構うのですか。ただの隣人なら、もっと無関心でいた方が……お互いに楽なはずなのに」 「さあな。俺も自分勝手な人間なんだけどさ。お前を見てると、どうも放っておけないんだよ。一人で全部背負い込んで、今にも泣き出しそうに見えるから」


 鳳条は顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳には、戸惑いと、それから、今まで誰にも見せなかったであろう脆さが、溢れんばかりに溜まっていた。


「……おせっかいですね、如月君は」 「ああ。自分でもそう思うよ」


 夜は静かに更けていく。秘密を共有した二人の間に、新しい感情の種が落ちたことを、俺たちはまだ言葉にする勇気を持てなかった。  帰り際、彼女は玄関先で俯きながら、小さな声で呟いた。


「……また、一人で食べきれない時は、連絡してもいいですか」 「ああ。いつでも呼んでくれ」


 その時、彼女が浮かべた微かな、けれど今までで一番柔らかい笑顔。それが彼女なりの精一杯の甘えであることを、俺は確信していた。


 部屋に戻った俺は、自分の殺風景な空間に違和感を覚えた。  隣の部屋の、サメのぬいぐるみと、一生懸命に料理を並べる少女の姿。  学校では決して交わることのない二つの世界が、今、俺の中で静かに溶け合い始めていた。

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