5 境界線の上の密会
学校という場所には、目に見えない幾重もの階層が存在する。 鳳条凛という少女は、その最上階に君臨する、誰もが認める象徴だ。彼女が廊下を歩けば道が開け、彼女が微笑めば空気が華やぐ。そんな彼女と、校舎の隅で背景の一部として息を潜めている俺とでは、本来なら交わるはずのない座標に生きている。
だが、今日の俺には、彼女が引いた境界線を越えなければならない理由があった。
午前中の授業中、俺の思考は目の前の黒板を素通りし、昨夜の鳳条との会話を反芻していた。彼女は言った。明日、学校でお弁当を渡す際は、絶対に誰にも見られないように、と。つまり、今日の昼休み、俺たちは学校という公の場で、密かに接触しなければならない。 これまでは廊下ですれ違っても、視線一つ交わさないのが俺たちの暗黙のルールだった。それが崩れる。その事実が、微熱の残る俺の体を内側からじりじりと焼くような落ち着かなさを与えていた。
昨夜、俺の部屋を後にする際の彼女の表情が脳裏に焼き付いている。命令するような口調とは裏腹に、その指先は微かに震えていたように見えた。高嶺の花と称される彼女が、一介のクラスメイトの健康管理にここまで固執する理由。それは彼女が言う通り、単なる貸し借りの清算なのだろうか。それとも、あの雨の日の孤独を共有してしまった者同士の、奇妙な連帯感なのだろうか。
やがて、昼休みを告げるチャイムが校舎に鳴り響いた。
「おーい、湊。昼飯行こうぜ。今日は購買の新作、カツサンドがあるらしいぞ」
椅子を引きずる音と共に、赤羽樹が俺の席にやってきた。いつもの能天気な誘いだ。普段なら俺は適当なパンで済ませるか、樹に付き合って購買の行列に並ぶところだ。しかし、今日ばかりはそうはいかない。
「悪い、樹。今日はちょっと、用があるんだ」 「用? お前が? 珍しいな。委員会の集まりか?」 「いや、まあ。そんな感じだ。先に行っててくれ」
俺は視線を逸らしながら、空のカバンを掴んで席を立った。背後で樹が「なんだよ、水臭いな」と呟くのが聞こえたが、振り返る余裕はない。
俺が向かったのは、新校舎の華やかさから見捨てられたような、旧校舎の裏手にある備品倉庫の影だ。ここは普段、部活動の連中も滅多に立ち寄らない、学校の中で最も温度の低い場所だ。冬を予感させる冷たい風が、枯れ葉を巻き上げながら通り抜けていく。コンクリートの壁は湿り気を帯びて冷たく、自分の吐き出す息が白く濁るのが分かった。
指定された時間は、昼休み開始から五分後。腕時計の針がその時間を刻んだ瞬間、校舎の非常口の重い扉が、音もなく開いた。
現れたのは、鳳条凛だった。学校での彼女は、一分の隙もない。乱れのない制服、丁寧に整えられた長い髪。だが、周囲を警戒するように左右へ視線を走らせるその姿は、まるで小さな動物が外敵を警戒しているようで、どこか危うい。
「来てくれましたか」
俺を見つけた瞬間、彼女の瞳に安堵の色が混じった。彼女は足早に俺の元へ歩み寄ると、周囲をもう一度確認してから、自身の背後に隠していた小さな保冷バッグを差し出した。
「これ。昨夜言った通り、今日の分です。それと、この保温ボトルには温かいお茶が入っています。病み上がりには冷たい飲み物は良くありませんから」 「ああ。ありがとな。わざわざ、こんなところまで」 「勘違いしないでください。私は、自分の管理下に置いたものが、あなたの不摂生のせいで台無しになるのが嫌なだけです。それより、体調はどうですか。昨夜よりは良さそうに見えますが」
鳳条は、俺の顔を覗き込むようにして尋ねる。その距離。彼女から漂うのは、教室で感じていた人工的な香水の匂いではなく、もっと身近な、石鹸のような清潔な匂いだ。
「おかげさまでな。熱はもう、平熱まで下がったよ」 「ならいいです。あ、それと」
鳳条は何かを言いかけ、俯いた。彼女の視線は、俺の手元にある弁当箱の包みに注がれている。
「味、昨夜あなたに食べさせたのより少しだけ濃くしておきました。あなたが美味しいと言ったのは、きっと煮汁が染みていたからだと思ったので。お口に合えば、いいのですが」
その言葉は、昨夜の理屈っぽさとは正反対の、純粋な懸念だった。俺がどう答えるべきか迷っていると、不意に、背後で乾いた靴音が響いた。
「湊? お前、そんなところで何してんだ?」
心臓が跳ねた。倉庫の角から姿を現したのは、購買へ行ったはずの樹だった。その手にはカツサンドの袋が握られているが、彼の視線は、俺ではなく、俺の目の前に立つあり得ない人物に釘付けになっていた。
「鳳条、凛?」
樹の声が震えている。学校で最も目立たない俺と、学校で最も注目される彼女。この二人が、誰もいない場所で密会している。その異常事態に、樹の脳内が処理を拒否しているのが分かった。 鳳条の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女は弾かれたように俺から距離を取り、いつもの無機質で冷徹な、高嶺の花の仮面を被り直した。
「失礼。如月君に、図書室の貸出期限について通告しに来ただけです。赤羽君、あなたも返却は計画的に行うべきですよ」
それだけを言い捨てると、鳳条は一度も俺を振り返ることなく、風のように去っていった。非常口の扉が重く閉まる。残されたのは、凍りついた俺と、目を白黒させている樹だけだ。
「おい、湊。今の、なんだよ。図書室の通告って。鳳条凛がわざわざこんな場所まで、お前に言いに来るのか?」 「さあな。あいつ、真面目すぎるところがあるからな」 「いや、おかしいだろ。お前、図書室なんて滅多に行かねえじゃん。つーか、お前が持ってるその保冷バッグ」
樹の視線が、俺の腕の中に隠されたバッグに向けられる。俺は咄嗟にそれを背中に隠した。
「これは、母さんに持たされたサプリとかだよ。昨日寝込んでたからな。樹、お前こそなんでここにいるんだよ」 「カツサンド、売り切れてたんだよ。で、戻る途中にここにお前が見えたから。なあ、お前。本当に鳳条さんと何でもないんだよな?」
樹の目はまだ疑念に満ちていたが、決定的な証拠はない。俺は当たり前だろとだけ返し、樹を無理やり購買の方へと押し戻した。背中に感じる樹の視線が、冷たい風よりも鋭く突き刺さる。
食事を終え、俺は旧校舎の階段に座り込んで深い溜息をついた。空になった弁当箱の重みが、先程までの緊張感を現実のものとして繋ぎ止めている。 樹にはどうにか誤魔化したつもりだが、危ないところだった。鳳条が守ろうとしている学校での立ち位置も、俺が守ろうとしている静かな生活も、一瞬で灰になるところだったのだ。
俺は弁当箱と空のボトルを丁寧に包み直し、カバンの奥深くに隠した。 午後からの授業中も、俺の後頭部には樹の刺すような視線が時折突き刺さっていた。彼はそれ以上追及してこなかったが、何かに納得したわけではないだろう。樹は馬鹿ではない。むしろ、こういう時の勘は誰よりも鋭い。
放課後、俺は早々に校門を出た。 駅までの道を急ぎながら、俺は手元のカバンの重さを感じていた。そこには彼女の思いが詰まっている。そう思うと、冬の始まりの冷たい風も、それほど嫌なものには感じられなかった。
マンションの自室に戻り、一息つく。 しばらくすると、隣の部屋から、微かに扉の開閉音が聞こえてきた。鳳条が帰ってきたのだろう。 俺は昨日のように、彼女がこちらを訪ねてくるのを待っていた。だが、三十分経っても一時間経っても、インターホンが鳴ることはなかった。
やはり、昼間の出来事で警戒しているのだろうか。 それとも、もう看病の必要はないと判断されたのか。 そう思うと、胸の奥に形容しがたい空白が広がっていくのを感じた。
夜の八時を回った頃。俺は意を決して、隣の部屋の扉を叩いた。返却しなければならない弁当箱を抱えて。
「はい」
扉が僅かに開き、そこから鳳条が顔を出した。 彼女は既に部屋着に着替えており、眼鏡をかけていた。学校や、俺の部屋に来る時の彼女とは違う、よりプライベートな、防備を解いた姿。
「弁当、ご馳走様。これ、返しに来た」 「そうですか。そこに置いておいてください」
彼女の声は、どこか冷たかった。昼間の樹との接触が、彼女の中に強い警戒心を生んだのかもしれない。
「鳳条、昼間のこと、悪かった」 「別に。あなたが謝ることではありません。不用意に近づいた私のミスです。これで、貸し借りはなしにしましょう。如月君、もう体調もいいようですし」
彼女は俺を見ようとせず、突き放すように言った。 扉が閉まりかける。その瞬間、俺は咄嗟に足でドアを止めていた。自分でも驚くほどの、反射的な行動だった。
「待てよ。まだ、お茶の感想、言ってない」 「お茶?」 「ああ。温かくて、飲みやすかった。おかげで喉の痛みも引いたよ。ありがとう」
鳳条の手が止まる。 眼鏡の奥の瞳が、僅かに揺れた。
「そうですか。なら、良かったです。用が済んだなら、もう帰ってください」
扉はそのまま閉められた。けれど、カチャリという施錠の音の後に、扉の向こう側で彼女が背中を預けて座り込むような気配がした。
俺は自分の部屋に戻り、静まり返ったリビングを見渡す。 彼女によって整えられたこの部屋に、もう彼女は来ないのかもしれない。 平穏で、孤独な生活。 それが俺の望んでいたはずのものなのに、今の俺には、それがどうしようもなく寒々しいものに感じられた。
翌朝、登校しようと部屋を出ると、玄関のノブに小さな紙袋が下げられていた。 中には、市販の栄養ドリンクと、一言だけ書かれたメモ。
『今日も、しっかり食べてください。 鳳条』
その文字は、彼女の背筋のように美しく、真っ直ぐだった。 境界線はまだ、消えていなかった。けれど、その線を越えて差し伸べられた彼女の手を、俺はもう、離したくないと思っている自分に気づいていた。




