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素直じゃない、お隣さんとの境界線  作者: haka


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4 秘密の対価と、不摂生への鉄槌

鼻をすする音が、昼休みの喧騒に混じってやけに大きく響く。  俺は机に突っ伏したまま、重い瞼を持ち上げた。視界の端では、数人のクラスメイトが談笑しながら弁当を広げている。その賑やかさが、今の俺には酷く遠い世界の出来事のように感じられた。


「お前、マジで死にそうな面してるな」


 向かいの席に椅子を逆向きにして座ったのは、赤羽樹だ。中学からの付き合いであるこいつは、俺の顔色の変化には無駄に敏感だった。


「一昨日、ちょっと雨に打たれた。ただの自業自得だ」 「予報出てたのに傘持ってなかったっけ。俺、持っていけって言ったよな」 「……持ってたよ。でも、道端で困ってる奴に貸したんだ」


 本当は、学校の駐輪場で鳳条凛に差し出した。その事実は、この教室の誰にも、そして目の前の親友にさえも明かすことはできない。もし知られれば、彼女を取り巻く崇拝者たちの嫉妬が、俺の静かな日常を一瞬で焼き尽くすだろう。


「傘貸して自分が風邪引くとか、お人好しにも程があるだろ。つーか、わざわざ風邪引くリスク背負ってまで、誰に貸したんだよ」 「……足元の危なっかしい奴にだよ」


 そう答えた瞬間、俺の脳裏にあの日の鳳条の姿がフラッシュバックした。  周囲の音を一切遮断し、自分自身の重みだけで地面に縫い付けられているような、あの拒絶の塊。放っておけばそのまま雨の中に溶けて消えてしまいそうな、危うい静寂。それを壊したくなったのは、俺の単なる気まぐれだったはずだ。


「お優しいこった。でもまあ、お前が風邪引いたのは自業自得だわ。昨日、家帰ってからちゃんと風呂入って温まったか? どうせ適当に体拭いて、そのままコンビニ飯食って寝たんだろ」 「……なんで分かるんだよ」 「お前の部屋の散らかり具合と、食生活の酷さは知ってるからな。お前、自分のこと大事にしなさすぎ。たまには看病してくれる彼女でも作れよ、不健康野郎」


 樹はからかうように笑うと、部活の仲間へと合流していった。  一人残された俺は、重い体を引きずりながら、昨夜の部屋の光景を思い出していた。


 放課後。  体調の悪化を自覚しながらマンションへ戻り、自室の重いドアを開ける。だが、漂ってきたのは使い古した芳香剤の匂いではなく、鼻をくすぐる温かな出汁の香りだった。


「お帰りなさい、如月君。遅かったですね」


 キッチンに立っていた鳳条凛は、俺の制服の乱れを一瞥しただけで、手元の包丁を再び動かした。彼女が着ているのは、俺の部屋に似合わない清潔感に溢れた自前のエプロンだ。


「……また勝手に入ってる」 「『また』とは失礼ですね。あなたが鍵をかけ忘れて出ていったから、防犯のために預かっておいただけです。……というか、なんですかその部屋の有様は」


 彼女は淡々と、しかし淀みのない動作で大根を切り進めていく。驚いたのは、キッチンだけではない。  テレビ台に積まれていた雑誌は整理され、床に脱ぎ散らかしていたジャージは綺麗に畳まれ、机の上は塵一つない状態に拭き上げられていた。


「お前、掃除したのか?」 「掃除というか、整理整頓です。こんな埃っぽい部屋にいたら、治る風邪も長引きます。……あと、これ」


 鳳条は手を止め、俺の目の前に一足のスリッパを差し出した。


「履いてください。床が冷たいままだと体温が奪われます。……それから、如月君」


 彼女の視線が、俺の手に握られたコンビニのレジ袋へと向けられる。中には、カップ麺と甘い炭酸飲料が入っていた。


「今後、しばらくは変なもの食べないでください。買ってきたそれは没収。明日からは学校での昼食も、私が用意したもの以外は禁止です」


 それは、看病という親切を通り越し、俺の生活を強引に彼女のペースに巻き込むという宣言だった。


「……弁当まで作ってくれるのかよ」 「ついでです。自分のを作るついでに、一人分も二人分も大して変わりませんから。これは傘を借りたことに対する私の『勝手なお返し』。深い意味はありません」


 彼女はそう言って、逃げるようにコンロの方を向いた。  湯気の向こう側で、鳳条の背筋はいつものようにピンと伸びている。だが、学校で見せるあの近寄りがたい「高嶺の花」のオーラとはどこか違う、もっと家庭的で、どこか必死さが伝わってくるような、年相応の少女の背中だった。


「いいですか、如月君。明日、学校でお弁当を渡すときは、絶対、絶対に誰にも見られないように。もしバレたりしたら、その時点でこの話は終わり。二度と、あなたの部屋には来ませんから」


 俺は黙って、煮え立つ鍋を見つめる彼女の背中を見つめていた。  学校では赤の他人。けれど、この部屋では俺の生活に、少しだけ照れながらも踏み込んでくる少女。


 樹が期待していた「看病してくれる彼女」とは、似て非なる、もっと不器用で秘密めいた何かが、この四畳半のリビングで始まろうとしていた。


「いただきます」


 俺がそう言うと、鳳条は一瞬だけ肩を揺らし、けれど振り返らずに「……はい、どうぞ」とだけ、小さな声で返した。

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