3 高嶺の花の、余計な世話焼き
学校という場所は、役割を演じるための舞台だ。 鳳条凛は誰もが憧れる「高嶺の花」を完璧に演じ、俺は背景に溶け込む「その他大勢」を演じる。昼休みに樹と話した通り、俺と彼女は住む世界が違う。廊下ですれ違っても、視線一つ交わさない。それがこの舞台の絶対的なルールであり、俺が望む「省エネ生活」の基盤でもあった。
だが、マンションの自室の前に立つと、そのルールは脆くも崩れ去る。
「帰ったか」
隣の部屋のドアの前には、主が帰宅していることを示すように、微かな気配が漂っていた。俺は自分の部屋に入り、熱を測る。三十七度二分。微熱だ。だいぶ下がった。これならもう、彼女に頼る理由はない。
正直、少しホッとした。これ以上関われば、俺の生活圏はなし崩し的に彼女に支配されてしまう。そう思って、着替えようと制服のボタンに手をかけた、その時だった。
迷いのない、規則正しいインターホンの音が鳴る。
「はい」 「失礼します、如月君。昨日の食材の残りを処理しに来ました」
扉を開けると、そこには既にエプロンを持参した鳳条が立っていた。彼女は俺の返事も待たずに、するりと隙間から部屋へ滑り込んでくる。昨日までは「看病」という大義名分があったが、今日は少し様子が違う。彼女の瞳には「管理者の使命感」のようなものが宿っていた。
「おい、鳳条。もう熱は下がった。わざわざ来なくていいって言っただろ」 「病み上がりこそが肝心だと、保健の授業で習いませんでしたか。それに、昨日のネットスーパーの野菜を使い切らないのは不経済です。食材を腐らせるのは私の主義に反します」
彼女はキッチンへ向かう途中で、俺がテーブルに置いたばかりのコンビニの袋を鋭く睨んだ。中には帰りに買ってきた、脂っこいメンチカツ弁当が入っている。
「如月君。一つ、指摘してもよろしいですか」 「嫌な予感しかしないんだけど、何だよ」 「今のあなたに、その揚げ物は暴力に等しい行為です。弱った胃腸に脂を流し込むなんて、何を考えているんですか。自己管理不足という言葉すら生ぬるい。これはもはや自爆行為ですね」
鳳条は俺の手から弁当の袋を奪い取るようにして没収した。あまりの早業に、俺は反論する隙すら与えられない。
「待て、それは俺の晩飯だ。金も払ってるんだぞ」 「これは明日、完全に元気になってから食べてください。代わりに、私が買ってきた食材で、まともな食事を作ります。野菜の鮮度が落ちる前に消費しなければならないという、合理的な判断です」 「……お前、学校じゃあんなに澄ました顔してるくせに、私生活じゃ相当なお節介だな」 「お節介ではありません。効率と義務の問題です。それとも、私の料理がそんなに不満ですか?」
鳳条はまな板の前に立ち、こちらをスッと睨んできた。その瞳には、反論を許さない意志の強さと、ほんの少しだけ、俺の反応を気にするような揺らぎが見えた。
(凛、お前な……)
心の中ではつい下の名前で呼んでしまう。学校で見せる、誰にも隙を見せない凛とした横顔。そして今、俺の不摂生を正そうと躍起になっている横顔。どちらも彼女なのだろうが、そのギャップに頭がくらくらする。
「分かった。鳳条が作ってくれるなら何でもいいよ。文句なんてあるわけないだろ」
俺が投げやりに、けれど本心を混ぜて言うと、鳳条は慌てたように視線を落とした。彼女の手元が少しだけぎこちなくなり、菜箸を持つ指先に力がこもる。
キッチンからは、小気味よい音が響いてきた。今回は、野菜たっぷりの煮物のようだ。鳳条は手際よく作業を進めながら、ふと独り言のように言った。
「如月君は、今の生活を続けていて虚しくならないのですか」 「え?」 「一人で適当に食べて、適当に寝る。そこに何の積み重ねもありません。あなたは自分を粗末に扱いすぎているように見えます」
鳳条の言葉は、ただの説教というよりは、どこか切実な響きを含んでいた。
「粗末にしてるつもりはないよ。ただ、余計なエネルギーを使いたくないだけだ。他人と深く関われば疲れるし、一人なら誰にも迷惑をかけないだろ」 「それが迷惑なんです。あなたが隣で倒れたりしたら、私が気になって集中できなくなるじゃないですか。そういう無駄な心配を私にさせないでください」
どこまでも理屈で塗り固める彼女だが、その背中は少しだけ小さく見えた。学校での彼女は、常に完璧を求められ、期待という重圧の中にいる。誰も彼女に「適当でいい」とは言わないのだろう。
「学校での鳳条、少しやりすぎてないか」 「……なんのことですか」 「いや、常に背筋が伸びてて、一分の隙もないだろ。見てるこっちが疲れるくらいだ。たまにはその辺のコンビニ弁当で済ませて、だらだらすればいいのに」
鳳条は包丁を止めた。換気扇の回る音だけが、気まずい沈黙を埋めていく。
「……やりすぎて、いるのかもしれませんね。でも、そうしていないと、私はすぐに崩れてしまいそうで」
鳳条は背を向けたまま、ぽつりと漏らした。学校では誰からも一歩引かれ、崇められている彼女。その孤独が、俺の殺風景なキッチンで少しだけ透けて見えた気がした。
「俺は、今の鳳条の方が話しやすくていいけどな。学校の鳳条は、綺麗すぎて緊張するし」 「そうですか。それは、嫌味ですか」 「褒め言葉だよ。人間味があって、隣人らしくていいだろ」
鳳条は一度だけこちらを振り返った。その表情は、困ったように眉を下げた、年相応の少女のものだった。どこか照れくさそうに、けれど誤魔化すようにふいっと顔を背けて、鍋の様子を熱心に確かめ始める。
「できました。今日はこれを食べて、温かくして寝ること。いいですね」
並べられたのは、温かな湯気が上がる肉豆腐だった。味がよく染みていそうな豆腐と、細かく切りそろえられた野菜。彩りまで考えられたその一皿は、俺の「省エネ」な食卓にはあまりに贅沢すぎた。
学校ではあんなに遠くに感じた彼女が、今は手の届く距離で、家庭的な香りを漂わせながら俺のために料理を並べている。 この状況を、樹のような「鳳条凛ファン」が見たら、間違いなく俺は明日にはこの世にいないだろう。
俺は「熱のせいだ」という便利な言い訳で、彼女の差し出す箸を受け取った。
「うまい」 「当たり前です。私のレシピに抜かりはありません」
彼女は誇らしげに胸を張るが、その声は心なしか弾んでいるように聞こえた。
食事を終え、彼女が食器を片付け終わる頃。外はすっかり暗くなっていた。
「如月君。一つ、提案というか、通告があります」 「通告?」 「あなたの冷蔵庫の管理を、私が継続的に行います。食材の買い出しも、私がルートに含めれば効率的です。もちろん、費用は按分しますが」 「いや、それはさすがに」 「拒否権はありません。不健康な隣人が隣で倒れているのは、私の安眠を妨げますから。……いいですね?」
それは、看病という期間限定の親切を超え、俺の生活の一部に彼女が入り込むことを意味していた。 鳳条はそのまま、「明日の朝食の献立を考えておきます」と言い残して、夜の廊下へと消えていった。
一人残されたリビング。見違えるように整えられたテーブルを眺めながら、俺は深い溜息をついた。 省エネ。平穏。無干渉。 俺が守ってきたはずの防壁は、鳳条凛という「お節介な天使」によって、音を立てて崩れ始めていた。
だが、その瓦礫の中で感じる奇妙な安心感を、俺はまだ認めるわけにはいかなかった。




