2 不摂生と、お粥の味
一人暮らしの男の部屋なんて、ろくなものじゃない。 特に、体調を崩して寝込んでいる最中の部屋となれば、それは生活の残骸が積み重なったシェルターのようなものだ。
視界が熱で歪む中、俺は自分のベッドまでどうにか辿り着いた。背後からは、小気味よい足音が続く。本来ならこの部屋に響くはずのない、鳳条の足音だ。 彼女は俺をベッドに横にならせると、迷いのない足取りで部屋のカーテンを開け、窓を僅かに引いて空気を入れ替えた。
「ひどい有様ですね」
部屋を見渡した彼女の第一声は、呆れを含んだ短い溜息だった。俺は布団から顔だけを出して、彼女の視線を追う。机の上には読みかけの文庫本と飲みかけのペットボトル。隅には昨夜食べたカップ麺の容器がそのままになっている。
「悪いな。元々、人に見せるような部屋じゃないんだ、鳳条」 「そういう問題ではありません。如月君、あなたは自分の生活を適当にしすぎです。この環境で健康を維持しようというのがそもそも無理な話ですよ」
鳳条は腰に手を当てて俺をたしなめる。学校では高嶺の花として遠巻きに眺められている彼女だが、今は口うるさい世話焼きにしか見えない。
「そんなに大げさなもんじゃない。少し寝れば治るよ」 「三十八度五分。私の手のひらで測った感じだと、それくらいはあります。これを大したことないと言うのは無理がありますね」
彼女はそう言うと、ブラウスの袖を丁寧にまくり上げた。その白く細い腕が視界に入る。不釣り合いな光景に、俺は熱とは別の何かが胸の奥で騒ぐのを感じた。
「おい、鳳条。何するつもりだよ」 「看病に決まっているでしょう。先程も言いましたが、私が今夜ぐっすり眠るためには、あなたの体調を元に戻さないと気が済まないんです。これは私の我が儘ですから、あなたは大人しくしててください」
鳳条は断固とした口調で言い切ると、俺の制止を聞かずにキッチンへと向かった。そこからは、俺の知らない音が部屋に満ち始めた。棚を開ける音や、冷蔵庫を確認する音。そして。
「如月君。一つ聞いていいですか」 「何だよ」 「あなたの家の冷蔵庫、なんで飲み物と納豆しかないんですか。普段、何を食べて生きているんですか」
キッチンの入り口から顔を出した彼女の表情は、怒りを通り越して可哀想なものを見るような目に変わっていた。
「コンビニがあるから、それでなんとかなるんだよ」 「コンビニばかりでは栄養が偏ります。弱っている時にそんなもの食べてちゃダメです。必要なものを手配しますので、寝ていてください」
鳳条はスマートフォンを取り出し、手早く操作を始めた。
(凛、本気かよ)
心の中ではつい下の名前で呼んでしまう。けれど、本人を前にしてそんなことは呼べない。彼女の放つの空気は、どこまでも自分の非を認めない強情さと、他人を放っておけないお節介で満ちているからだ。 やがて食材が届き、キッチンから卵を割る音や、鍋からしゅんしゅんと湯気が上がる音が響いてきた。それは独り暮らしの俺の部屋にはあまりに不似合いで、けれど不思議と耳に心地よかった。
「如月君。起きてください。お粥ができましたよ」
鳳条の声に目を覚ますと、部屋の中にはお米の炊ける柔らかな香りが漂っていた。彼女は小さなトレイに、丁寧に盛り付けられたお粥と、水、そして解熱剤を乗せて戻ってきた。ふんわりと卵で綴じられた白いお粥は、食欲がまるでないはずの喉を自然と鳴らした。一口、口に運ぶ。
「うまい」 「そうですか。それは良かったです」
俺が思わず零した感想に、鳳条は少しだけ視線を逸らした。その耳の端が僅かに赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
「味付けはごく薄くしていますが、病人の体にはこれくらいが丁度いいんです。文句は言わないでくださいね」 「文句なんてないよ。わざわざ、悪いな。材料費、後で払うから」 「いいえ、結構です。これは看病という名の、私の自己満足。私に『お返し』をさせているのだと思って、気にしないでください。それから」
鳳条は一度言葉を切り、少しだけ声を低くした。
「学校では、お互い干渉しない。それでいいでしょう? 私たちは、ただの隣人なんですから」
学校では彼女は完璧な鳳条凛であり、俺はただの如月湊だ。関わりなんて、あってはならない。
「ああ、わかってる。学校じゃ、赤の他人だ。それでいい」
鳳条は満足げに頷くと、最後に額の熱を確かめ、「明日の朝、また来ます」と言い残して去っていった。
翌朝。 鳳条の宣言通り、彼女は登校前に俺の部屋を訪れ、手早く朝食を整えていった。 そして、学校の校門をくぐった瞬間。俺たちの間には、見えない高い壁が再びそびえ立った。
一歩校舎に入れば、鳳条は取り巻きの女子や男子に囲まれる注目の的だ。気品あふれる笑みを浮かべて廊下を歩く彼女は、昨夜、俺の汚い部屋で卵を割っていた少女と同一人物だとは微塵も感じさせない。
「よう、湊。お前、今日なんか顔色悪くね?」
昼休み、俺の席に図々しく椅子を持ってきて座ったのは、赤羽樹だ。中学からの腐れ縁で、この学校で唯一、俺の「省エネ主義」を理解しつつも土足で踏み込んでくる男だ。
「……ちょっと風邪気味なだけだ」 「マジか。一人暮らしで風邪はきついだろ。なんか買ってってやろうか? ゼリーとか」 「いいよ、昨日のうちに買い込んだから」
そう答える俺の視界の端に、廊下を通り過ぎる鳳条の姿が見えた。彼女の周囲には常に人だかりができている。彼女は一度もこちらを見ることなく、そのまま教室の奥へと消えていった。
「お、高嶺の花様のお通りだな。相変わらず次元が違う美しさだよな、鳳条凛は。あんなのと隣の席にでもなったら、緊張して知恵熱出るわ」
樹が能天気にそんなことを言う。まさかその「高嶺の花」が、俺の隣の部屋に住んでいて、今朝もお粥を作ってくれたなんて口が裂けても言えない。
「……そうだな。俺たちには縁のない存在だよ」
俺はパンの袋を開けながら、素っ気なく返した。嘘ではない。学校というこの場所において、俺と彼女はどこまでも平行線だ。
だが、放課後。 部活へ向かう樹と別れ、一人マンションへ帰る足取りは、昨日より少しだけ重く、それでいて僅かに急ぎ足になっていた。 境界線の向こう側にいる彼女が、今夜はどんな顔をして俺の部屋の扉を叩くのか。 それを期待している自分に気づかないふりをして、俺は夕暮れの道を急いだ。




