タイ・フランス領インドシナ紛争について(備忘禄) ver.Thai.
タイに滞在中です。
タイ側の新しい資料を眺める機会に恵まれました。
タイ側の主張(タイの公式記録)に沿ったタイ・バージョンを投稿します。
以前の文章を一部だけ手直ししました。
1940年、タイ王国は、インドシナ連邦の隣国に位置する隣接するフランス植民地の統治者であるドグー・インドシナ連邦総督へ向けて、一通の外交文章を認めた。
内容は、親書の形式を採った抗議。
ーーーフランスが「不当に占拠するタイ王国領土からの軍事勢力を直ちに撤退せよ」というものだった。
不当に占拠するタイ王国領土とは、カンボジア(バッタンバン州とシエムリアプ州)、ラオスを指す。
タイ王国のこの主旨に基づく要求は、以前から繰り返し送り付けられていた。だから、インドシナ連邦総督に何かしらの目新しさ、例えば、憤りや感動などを与える要素を含んではいなかった。
しかし、「ドグー総督」には東南アジア情勢が、その主旨の外交文章を初めて受け取った頃とは大部変わっていると言う認識ならば持っていた。
それは、その時、インドシナ連邦を軍事力で支配してきたフランス本国が事実上消滅していたという、植民地政府が後ろ盾の喪失したと言う危機感に他ならなかった。
さらに彼が統治するインドシナ連邦の北部は、既にタイ王国と同じ、アジア人が創造した唯一の列強国、大日本帝国陸軍が支配下に収めようと蠢いていた。
これはあくまでも日中戦争に置ける蒋介石政府への補給を行うインドシナルートの断絶のための駐留であり、陸軍の装備も会戦向きではなかった。だが、やはり『存在』そのものが立場の不安定な支配者に対する大きなプレッシャーとなっていた。
だから、インドシナ連邦総督は少しだけ思い悩んだ。
そして、その末に出した回答は、
ーーー無視。
つまり、従来と何一つ変わらない、無言による引き延ばしであった。
「総督」としては、
ーーー何やら大声でやかましく騒いではいる。しかし、どうせ大した事は言ってない。
自分の貴重な時間を対処に費やす価値はないとして、返書もせずに、そのまま放置するに任せていた。
一方、インドシナ連邦軍情報部は「総督」とは異なる独自の見解を持っていた。
情報部は、要求を断る形で真摯に返答したとしても、未来はさして変わらないと考えていた。
タイ王国軍との交戦は、どうしようとも避けられないと覚悟していたのだ。
それはもちろんタイ王国陸海軍も同じだったが。どの意味で、インドシナ連邦とタイのリアル・ポリティックの最前線にいる者達同士は、価値観を共有出来ていた。
しかし近代戦における初戦となる情報戦の能力は、互いに共有出来ていなかった。具体的には、タイ王国はフランスに大きく差を開けられていた。
どのくらいに大きく? 天と地ほどにだ。
というよりも、戦略における情報戦の重要度を今ひとつ認識出来ていなかった。
この種の格差は、実に致命的であり、タイ王国はやがて喰らうだろう痛みに対してとびきりの無自覚であった様だ。
1940年9月15日、タイ国鉄のサラブリー付近に、タイ全土から集められた無蓋車を中心とする貨車列車群が集められていた。またサッターヒップ港には薪や石炭の戦時級の備蓄が始められた。イタリア製の水雷艇HTMSラッヨーンには、緊急整備が施されていた。
首相官邸で、作業の成り行きの報告書へ目を通しながら、タイ王国のピブン首相は満足そうにタバコをふかしていた。
「ドグー・インドシナ連邦総督は、我々アジア人には言葉による脅しを掛けるしか能が無いと思っているようだな」
報告書を提出する為に首相官邸へ出向いていたルチヤウィライ陸軍大佐は、直立不動の姿勢のまま応える。
「はい。しかし我が軍はあの頃とは違います。もう一度チャオプラヤー川をさかのぼってクルンテープ(バンコク)を攻略しようとするなら、両岸からの砲撃でどんな戦艦でも穴だらけにしてやれるでしょう」
ルチヤウィライ陸軍大佐が話しているのは、歴史上、『シヤーム事変』と呼ばれる事件である。1893年にフランスがタイ王国の領土分割を要求するために起こした、ガンボート外交のことを指している。
河口からチャオプラヤー川をさかのぼって、クルンテープと王宮を鑑砲の射程下において領土割譲交渉が行われた。事実上の恐喝だった。近代化がまだ不十分だったタイ王国(当時の国名はシヤーム)の防御の隙をついた効果的な攻撃でもあった。これが原因でタイ王国はラオスやカンボジアなどの多くの領土をフランスに奪われることとなったのだ。
「どうだ。我等が軍の精鋭ぶりは。我が祖国はもうチュラロンコーン大王の頃のシヤームとは違うのだ。決して西欧には負けはしない。そうだな?」
「その通りであります。王国は、もはや、大日本帝国も同盟を求めるアジア第二の大国となっております」
ルチヤウィライ陸軍大佐は間を入れずに応えた。彼自国軍を首相と同様に評価していたし、首相の自軍へ対する信頼を拒否する理由が見つからなかった。
何故ならば、東南アジアから、じょじょにではあるが確実に、欧州・合衆国勢力が駆逐されつつあったからだ。
インドシナ連邦を支配していたフランスに続いて、マレー連邦やインド連邦を支配するイギリスもまた、ナチス・ドイツの侵攻の前には風前の灯火に見えたからだ。
事実、大佐の認識ではマレー連邦を警備するイギリスやインドシナ連邦の軍事力はすでに空になっているはずだった。当たり前である。本国を守るために植民地の軍事力をすべてヨーロッパ戦に転用してしまったと考える事こそ理に適うからだ。
今や、タイ王国周辺には強力な軍事勢力は大日本帝国、およびピリピンに引きこもる合衆国軍のはずなのだった。タイ王国は東南アジアでの覇権を狙って動き始めたのだ。
「海軍にも強請られるままに日本製の最新鋭戦艦HTMSトンブリーを与えた。これで最強の海洋艦隊が組めるのだ。これでシアーム湾の制海権も我が国のものへと取り返せる」
「我が陸軍の装甲部隊もお忘れなく。イギリス製ビッカーズ・カーデンロイド戦車や日本製の九五式戦車を取り揃えてあります」
「もちろんだ。これで祖国の栄光を取り戻せる。しかし戦争の主役は陸軍だ。電撃作戦の成功を期待しているぞ。大佐」
「はっ! おまかせください!」
大佐はピブン首相に敬礼して執務室を後にした。電気式のトラムを乗り換えて、フアラムポーンにあるタイ国鉄のクルンテープ駅へ向かった。ラマ4世通りを始点とする、私鉄を買収したパーク・ナーム線のレールを跨いで、クルンテープ駅に入った。喉に渇きを覚え、鉄道員に持ってこさせた水を飲んでから、サラブリー駅を通過する急行列車に乗り込んだ。
車窓を流れる風景に魅せられながら、ルチヤウィライ陸軍大佐はタバコに火を付けた。この美しいを祖国を西欧からの侵略から守りたい。彼の心底からの願いだった。そして祖国の栄光を汚す存在をあらゆる手段でもって抹殺したいと思っていた。
それにはまず、インドシナ連邦によって不法に占拠されたメーコーン川東岸のラオスやカンボジア西部などの領土を奪い返さなければならない。
そして最終的にはイギリスに奪われたマレー連邦の領土も奪え返すことになるだろう。うまくいけばビルマも支配下に置き、ヴィエトナムまでをも勢力下に置けるかもしれない。そう思うとタバコの味がさらにうまく感じられた。彼は、良い時代に生まれたことを仏蘭西ならぬ「仏」に感謝していた。
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1941年9月22日、ドグー・インドシナ連邦総督は大日本帝国陸軍の要求に屈し、日仏軍事協定を締結した。インドシナ連邦東北部の空港を大日本帝国陸軍航空隊が使用することを認めた。たがこれは結果として、インドシナ連邦をさらなる窮地に追い込むこととなる。
翌23日、大日本帝国陸軍は中国国境(ランソン付近)を突破し、トンキン湾の軍事的要所であったドーソン島を占拠した。
インドシナ連邦軍陸軍航空隊と情報部はもちろんこの可能性を承知していた。国境付近に偵察機のポテッツ25を配置して警戒にあたっていた。
この日、インドシナ連邦軍は大日本帝国陸軍航空隊にポテッツ25を1機撃墜された。ただしこの23日の攻撃は、日本側からの単なる警告に過ぎなかった。
第一次世界大戦に活躍した複葉機であるポテッツ25と、その旧式機を与えられた操縦士にとってはひどい災難であった。23日の攻撃では、一機撃墜を記録しながらも、大日本帝国陸軍航空隊がかなり自重して戦った結果であると言う事実は、翌24日に要撃に飛び立ったモラーヌ・ソルニエ406のパイロットの報告で立証された。
「敵戦闘機は全金属製の新型機。形式不明。最高速度は時速500キロを越え、旋回性能は従来のどの戦闘機に勝り、極めて機動性に優れている。我らが最高の機体であるモラーヌ・ソルニエ406でも、タイが保有する米国製カーチス・ホークでも太刀打ちできない」
実際、23日以後に離陸しらインドシナ連邦軍機は、大日本帝国陸軍航空隊によっては一機も撃墜されていない。この日に全金属製の新型機の登場もまた、「しばらく邪魔をするな」と言う単なる警告に過ぎなかったのだ。
なお、この日の形式不明の九六式や九七式とは明らかに異なるほっそりとした全金属製の新型戦闘機は、後に連合国には「オスカー」、日本からは「隼」の名を与えられる陸軍一式戦闘機の試作機だった。日中戦争に投入された艦上零式戦闘機と同様に、最終試験として最前線で試用されたというわけだ。
艦上零式戦闘機がソ連製のイシューリンを駆るベテラン・パイロット(フライング・タイガースの義勇兵)たちとの正面切っての空中戦に晒されのに対して、隼に対してはモラーヌ・ソルニエ406がその役を担ったのだ。
これらの事件によって、戦場で使用される戦闘機がそれまでとは異なる新しい世代のスペックへと移行したことが、東南アジアの国々にもしっかりと認識されたのだった。
不幸にも、25日にポテッツ25を追加で1機撃墜されたが、だが、それで大日本帝国陸軍航空隊との空の戦闘は終了した。本国の指示もあり、ドグー・インドシナ連邦総督は大日本帝国へ膝を屈した。
その直後に、ドグーは総督職を辞任した。これによって、インドシナ連邦の戦争に対する消極的な態度がはっきりした。タイ王国は大日本帝国とインドシナ連邦の交渉を笑みを持って見守っていた。そして大日本帝国に戦闘機の緊急発注をアンダーテーブルで打診しはじめたのだった。
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1941年11月、タイ王国機甲師団がアランヤプラテートの南部国境を突破し、インドシナ連邦への侵入を開始した。これによってた「タイ・フランス領インドシナ紛争」が火蓋を切って落とされた。イギリス製ビッカーズ・カーデンロイド戦車や日本製の九五式戦車を主力とし、さらに2万人の歩兵が投入された。
インドシナ連邦軍はこの動きを予知し、国境から約50キロに位置するシーソーポンに防御戦を敷いていた。タイ王国機甲師団の動きはここまではインドシナ連邦軍の予想通りだった。インドシナ連邦軍の主力は1万人、そしてヴィエトナム人と傭兵が4万人。これらの兵力の中から2万人を送り込んでいたので、兵力は拮抗する筈だった。あとはプノム・ペンから鉄道による人員輸送と補給し続ければタイ王国軍が侵略をあきらめるまで持ちこたえられるはずだった。しかしタイ王国軍は日露戦争でロシア軍が使った兵員輸送を研究し、インドシナ連邦軍の予想を超える大兵力の輸送を短期間に行ったのだ。
ロシア軍はモスクワから極東までの人員輸送と補給物資の輸送を単線だったシベリア鉄道で送り込むために、貨車の回送をあきらめたのだ。つまり輸送後の貨車を廃棄して、列車の動きをほとんど一方通行化するために、輸送量が見積もりの約二倍になる。これもは大日本帝国陸軍は肝を冷やした。
今回のタイ王国軍は怒濤の攻撃を続ける日露戦争当時のロシア軍と同じ状況を作り出すことに成功した。今度はインドシナ連邦軍が日に日に倍加する敵軍の兵力に苦しめらる番だった。36万人の兵力を持つタイ王国軍はその1/3の人員と装備をアランヤプラテートまで、たった1週間でサラブリから輸送してみせたのだ。
特に総重量の軽い95式戦車は輸送には最適だった。95式戦車とは三菱製で、戦闘時よりも輸送時の効率に主眼をおいて開発されたモデルだ。89式戦車をベースに機動性と砲撃による貫通能力を高める改良が行われている。それだけに、鉄道輸送する上でも大変に有利と言う特徴を持っていた。
予想を大幅に上回る戦力の集中を受けたインドシナ連邦軍は、シーソーポンでの防衛線をささえ切れずに、バッタンバンまで後退することとなる。
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11月29日、ダムレイ山脈上空を一機の航空機が飛行していた。それはインドシナ連邦軍陸軍航空隊モラーヌ・ソルニエ406、イスパノスイザ社製の液冷エンジンが引き起こす喧しい振動が飛行士の全身を襲う。
プロペラ軸の中心を通っているモーターカノン砲には実戦に堪える為の実弾が詰められ、現状のままであらゆる空中戦に対応できる。
モラーヌ・ソルニエ406の操縦席に収まるフランソワ伍長は、タイ王国領海上空に侵入して強行偵察を終えたばかりだった。今日の作戦には、先日のサゲオ県上空で行われた作戦ほどの緊張感はなかった。
タイ王国海軍は大日本帝国やイギリスと違って空母を保有せず、また、それから離発着できるパイロットもいない。だから、上空で仮想敵機と出会う可能性は極めて低かいと見込んでいた。
タイ王国・インドシナの国境に横たわるダムレイ山脈のおかげで地上軍が侵攻できない。しかしさらに南部のコンポン・ソムやカンポートまで下れば、大兵力を強襲上陸させてプノム・ペンへ侵攻させることができる。おそらくは、北側は陸から、南側からは海から、侵略軍が退去することだろう。
そして、南側の海から侵略軍を上陸させるには、インドシナ連邦軍の海軍戦力による防衛戦を突破する必要がある。だから、シヤーム湾(タイランド湾)では、間違いなく艦隊同士の戦闘が起こるだろう。
ーーー空宙でも激戦が起こるのかもしれない。
「空の方も戦闘が激化するかもしれない」
そうつぶやいて時計を確認した。あと30分でプノム・ペン空港に着陸して作戦は終了する。足した苦労もなく、自国の領空へと戻れそうだ。なんだかんだで気が抜けていた。
先日の強行偵察の途中、ナコンパトム南方へと侵入した自軍のポテッツ25とモラーヌ機による6機編隊がタイ王国のサゲオ県上空で大陸軍航空隊の米国製ヴォートO2Uコルセア(輸出用のO3U-6/V-93s)と米国製カーチス・ホーク3で組まれた編隊による迎撃を受けた。ドックファイトの結果、タイ側に被害はなかったが、モラーヌ機が撃墜されてしまった様だ。
タイ王国の航空機の性能とパイロットの技能が明らかに向上していると認めざる得ない。プランス人パイロットが敵対している驚異が保有する戦力は、すでに侮れないレベルへと昇格しつつあった。
実はインドシナ連邦軍陸軍航空隊が保有する航空機は、局地戦闘機ですら本国周辺と比べて確実に第二線、三線の旧式機ばかりだった。それは今までのインドシナ連邦の防衛には戦闘機など必要とする仮想的が存在しなかったからだ。
しかし今では、まずは大日本帝国が自国領へ重大な影響を発揮しつつある、さらに急速に軍備の近代化を進めるタイ王国が国境のすぐ近くで控えている。
従来のタイ王国の戦力のままであったならば、インドシナ連邦軍の戦力だけで何とか封じ込められるだろう。しかし、大日本帝国陸軍航空隊が採用していた九七式戦闘機(や、海軍のダイブ能力に優れる九六式戦闘機)、さらに日中戦争へと投入された謎の新型戦闘機までは供与される様になると、封じ込めるどころか、こちらが封じ込められてしまう。
「万が一、インドシナ連邦が大日本帝国と戦闘状態に入った場合、マレー連邦やインド連邦のイギリス軍は頼りになるのだろうか?」
パーサック川が前方に見えてきた。あとは川に沿って行けばプノム・ペン空港に到着するだろう。フランソワ伍長は眠ったような熱帯の地上へ向けて愛機を誘導した。何も起こらなければいいのに、と思いながら。
彼は知らなかった。その日、インドシナ連邦軍陸軍航空隊が近日、合衆国より受領するはずだった最新型の局地戦闘機と爆撃機の商談が、彼が空の上にいる間に無へと帰していたことを。これは本国親ナチス政権からの横やりによるものだった。フランスの新政権は、海外植民地に対して迫り来る驚異を無視するように命じたのだった。
これが、ドグー・インドシナ連邦総督の強気を失わせることとなる。
タイが送って来る親書の形式を採った抗議に対してだけでなく、アジア全般からの要求に対しても、可能な限り柔軟に対応しよう。その様に行動指針の変換を決めた。
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1941年12月、シーソーポンの前線司令部にルチヤウィライ大佐の姿があった。真後ろにあるシーソーポン山の頂上に張ったアンテナから、ラオス方面に振り分けられた陸軍航空隊の爆撃が成功したことを知らされた。
「なかなかうまくいっているようだ。あとは、バッタンバンのサンケー川の鉄道橋などを爆撃で落とせれば敵軍の退路を絶てるな」
タバコに火を付け、インドシナ連邦政府発行の地図を使って、タイ王国軍の展開状況を眺めた。
「しかしそれではプノム・ペンまでの侵攻に鉄道を利用できなくなります。鉄道橋くらいは無傷で奪取した方が得策では?」
機甲師団のチャチャイ少佐が進言した。この少佐はめずらしく兵胆を憂慮する視野の広い人物だったようだ。しかしルチヤウィライ大佐はチャチャイ少佐に、彼が誇る広い視野をもうちょっと、例えば海の向こうまで広げて欲しいと願った。しかしそのことは伝えずに、敢えてわかりやすい説明をして最短時間で自覚させた。
「少佐、インドシナ連邦軍の兵力を確実に叩いておく方が今は得策だ。やつらが投入した2万人の兵力を壊滅させれば、その兵力を補充するこができない。それだけで自滅に追い込めるのだ。早急にプノム・ペンを制圧する必要もない」
これは本国からの支援をまったく受けるこの出来ないインドシナ連邦軍の事情によるものだ。チャチャイ少佐にも十分得できる話だった。
しかし、とルチヤウィライ大佐は考えずにはいられなかった。
あの大日本帝国陸軍もヴィエトナムに展開して、インドシナ連邦を狙っているのだ。
おそらくカンボジア全土をタイ王国が抑えることを大日本帝国陸軍は許すまい。
ここはバッタンバンなどの旧タイ王国領土の奪還程度にとどめていた方が利口だろう。
そうしないと、最悪、どこかでタイ王国軍は大日本帝国陸軍と正面衝突する事になってしまう。
その時だった。辺りに爆音が響きわたった。続いて爆破とが聞こえる。空を仰ぎ見ると4機の爆撃機と6機のモラーヌ・ソルニエ406がタイ王国軍を攻撃していた。
戦闘機と爆撃機のほとんど全可動機を投入しているようだ。狙いは前線へ送られる弾薬や燃料の補給に違いない。もしそれらの支援物資が失われれば、バッタンバンで一進一退の戦いを行っているタイ王国軍の被害は甚大なものとなるだろう。
完全に虚をつかれた奇襲だった。近くを飛行していたタイ王国陸軍航空隊のハインケル43が駆けつけたが所詮は旧式の複葉機だ。すぐに護衛のモラーヌ・ソルニエ406がハインケル43を難なく無力化していく。
「ホークを呼び戻せ! 制空権を奪い返すんだ! 爆撃を許すな!」
ルチヤウィライ大佐は怒鳴ったが、時既に遅い、とうてい間に合わないことは分かっていた。高射砲が空に向かって撃ち放たれるが、あまり効果はないようだった。ルチヤウィライ大佐は歯ぎしりをした。合衆国から納入されるはずだったホークの増備さえ実現していれば、今この瞬間にも十分な戦闘機をカンボジア戦線にへ回せていたはずなのだ。しかしタイ王国のインドシナ連邦への侵攻以後、合衆国は引き渡しをこばんでいるのだ。
「やはり頼りになるのは同じアジア人、大日本帝国か・・・」
しかしそれも難しいだろうとも思えた。なぜなら大日本帝国は蒋介石支配区域の上空でタイ王国・フランス戦争とは比べものにならない大規模な空中戦の真っ最中なのだ。そのさなかに貴重な戦闘機をたくさん分けてください、とはなかなか言いづらいことだ。
どーーん!
モラーヌ・ソルニエ406が火を噴いて地上に落下してきた。ラオスで作戦中のホークがこれほど早くシーソーポン上空に到達できるとも思えない。しかしそれでは自軍が保有する旧式の複葉機が戦果をあげたのだろうか? 大佐は空を仰いだ。
「ばかな!」
大佐は信じられない光景を見た。そこには藍色と赤と白の円、つまりタイ王国軍の認識マークを付けた、かつてないほどに頑丈そうな金属製の戦闘機が多数で宙を舞っているいるのだ。しかしその認識マークは明らかに偽装だった。
「九七式戦闘機!」
それは中国上空で合衆国製やソ連製の戦闘機を追い回しているはずの、大日本帝国陸軍航空隊の戦闘機だった。日本陸軍が初めて手にした全金属製低翼単葉戦闘機である。
引込脚を採用した九七式戦闘機は、低空では無類の機動性と高速性を誇る機体である(スペインで運用されていた様な初期のメッサーシュミットBf109にも引けを取らないほどに)。引き起こしに失敗して地表とキスする羽目に陥った高速特化の性能を誇るモラーヌ・ソルニエ406とは違って、地表すれすれで見事に機体の引き起こしを成功させて見せた。
その様子から伺うと、九七式戦闘機に完熟状態にある操縦士が登場している様に思われる。続けて、同機を追って急降下していたモラーヌ・ソルニエ406が一機、引き起こしに失敗した。つまり、新たにもう一機地表へ激突した。
足りないエンジン出力が祟って低空、低速をもっとも不得意とするモラーヌ・ソルニエ406で、低空、低速をもっとも得意とする九七式戦闘機に正面から挑むのには多大に無理があった。
そうでありながら、欧州や合衆国のパイロットは一様にアジア製の戦闘機の実力をあまりに低く見積もっていた。あるいは、それを認めるのはやぶさかであったのだ。
結果、彼らは見込み違いがもたらす害を自身で被ることなった。これはこれで潔い態度であるとも言える。自業自得的に。
「義勇軍か! ありがたい!」
だが、そんなことは大佐には知ったことではない。攻撃の矢面に立たされている部下達の払う犠牲が少しでも少なくなれば、理由や事情など、どうでも何でも構わない。
九七式戦闘機の突然の飛来により、インドシナ連邦軍の航空攻撃隊は虎の子のモラーヌ・ソルニエ406を3機も失ってしまった。これで戦意を喪失してしまったのか、タイ王国軍の戦車部隊や補給部隊の殲滅作戦を中止して早々に飛んで来た方向へ飛び去った。おかげでシーソーポンに集結していたタイ王国軍は救われた。
やるべき事を終えたを確認してから、ほとんど被害を受けなかった九七式戦闘機の編隊は、バンコク方面と思しき方向へ消え去った。まるでに何事もなかったかの様に。
九七式戦闘機はその後バンコクの滑走とへ着陸し、ほぼ同時にここまで空輸して来た日本人パイロットの手からタイ陸軍航空隊司令部へと引き渡された。これらの九七式戦闘機は、合衆国が引き渡しを拒むホークの代替機だった。タイ王国軍への正式採用が決まり、直ちにそれらが引き渡されたと言うことである。
中島飛行機が製造した九七式戦闘機は、昭和17年までに全12機がタイへと引き渡された。続けて、本物の最新型である一式戦闘機「隼」の量産機も引き渡されている。これらの日本製の機体は、戦中と戦後のしばらくの間はタイ王国軍の空軍戦力の要であり続ける。
タイ王国では、九七式戦闘機を「キ27」、一式戦闘機を「ハヤブサ」または「キ43」と記録している。
モラーヌ・ソルニエ406を追い回す、タイ王国軍の国籍標識が描かれた戦闘機の雄姿は、この日シーソーポンにいたタイ王国軍人達は一生忘れられないものとなった。
この日の空戦によって、インドシナ連邦軍はモラーヌ・ソルニエ406を2機失った。また他の戦闘機や爆撃機も7.7mmミリ弾にさらされ、プノム・ペンまではたどり着くことは叶ったが、その被害は甚大だった。
本国からの消耗した機体の追加補給はおろか、部品調達すらできないインドシナ連邦軍の航空戦力は格段に低下した。その穴を埋めるために、合衆国から機体の購入を新たに画策した。だがそれは本国親ナチス政権の横槍によって露と消えた。
結局、シーソーポン強襲の失敗により、インドシナ連邦軍はその後は昼間の航空作戦を放棄した。これによって、地上戦は完全に膠着状態に陥った。
ルチヤウィライ大佐は理想家ではあったが、それ以上に現実を常時認識し直す能力に長けてもいた。
バッタンバンから先への進軍は大日本帝国も喜ばない。しかし、そんな事ではなく、自軍の補給線の限界が想定よりも遙かに低いと再評価していた。バッタンバンから先へは、どうにも補給線が伸びないのだ。
バッタンバンから先のプルサトからプノム・ペンへのタイ・インドシナ連邦の国境にはカルダモン山脈とダムレイ山脈が横たわっている。ここは険しい地形だけでなく、人間の力の及ばない熱帯雨林で包まれている。そこでは熱帯性マラリアやデング熱などの文明の力を拒絶する要素がいっぱいだ。
この地理状況では、アランヤプラテート、シーソーポン、バッタンバン、プルサト、プノム・ペンという縦長の補給線を作り上げることとなる。しかしインドシナ連邦は大河トンレ・サープという水上輸送を用いて、長く伸びたタイ王国軍の補給線を東側の側面から突き、前線の味方を孤立されることが容易なのだ。
バンコクの司令部や政府はそのままプノム・ペンへの侵攻を指示してくるが、ルチヤウィライ大佐はそれを受け流し、プノム・ペン方向ではなくアンコール・ワットで有名なシエム・リアプ方面へと徐々に部隊を展開させつつあった。
もしシエム・リアプを抑えれば、タイ王国のスリン県からの新たな補給路を作り出すことができるからだ。また大河トンレ・サープ、さらに大河メーコーンからの敵軍の上陸に対して防御線を敷くことができる。
実際、バッタンバンでのインドシナ連邦軍の抵抗は激しく、気を抜けば戦線が押し戻されるケースも多々あった。ルチヤウィライ大佐のこの方針に、タイ王国首脳陣も結局は追認するしかなかった。
そこで、タイ王国海軍が誇るウィラバーン大佐の打撃艦隊とユゥッタキット大佐の防衛艦隊の2艦隊に出動を命じた。カンボジア唯一の上陸地点となりえる海岸線を持つ、コンポン・ソムの周辺海域に潜む敵の殲滅だった。具体的には艦砲射撃による威嚇で、インドシナ連邦への威嚇だった。状況によっては、陸軍を上陸させてプノム・ペンへの侵攻をアランヤ・プラテート方面とコンポン・ソム方面からの二面化させ、場合によってはサイゴンに艦隊を進め、「シヤム事変」の借りを返すという趣旨がこめられていた。
ウィラバーン大佐は旗艦HTMSトンブリーの指揮所で出撃命令を受けた。彼の打撃艦隊は川崎造船所製の近代戦闘艦「HTMSトンブリー」を旗艦に、HTMSシーアユタヤ級戦艦、水雷艇のHTMSラッヨーン、HTMSソンクラー、HTMSチョンブリー、さらに敷設艇のHTMSノーンサッラーイの6隻で構成されていた。事実上、タイ湾付近では最強の艦隊だ。これに対抗できる戦力は英国が支配するマライ連邦に駐留するイギリス極東艦隊だけだった。
大佐はうれしそうに命令を受け取り、直ちにホア・ヒン沖からサッターヒープ港で整備中の水雷艇HTMSラッヨーンに「コ・チャーン(チャーン島)沖まで迎えにいくので、艦隊に合流せよ」と合流命令を出した。
彼は有頂天だった。なぜならこれがタイ王国海軍が実力を示すことができる初めての実践であり、なおかつインドシナ連邦海軍が彼の艦隊に対抗できる戦艦が一隻も保有していないという絶対に勝利できる環境が整っていたからだ。
「フランス海軍の戦力はすべて対ドイツ戦に向かったまま、今やアフリカの向こう側だ。楽なものだなあ」
大佐の楽観は艦隊全体の状況把握と同じだった。そこで通信士は水雷艇HTMSラッヨーンへの命令を暗号なしの平文の口頭で伝えた。この情報管理の甘さのつけを、やがて彼らは身をもって味わうこととなる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
1941年1月15日、旗艦HTMSトンブリーは、第三戦隊を率いてシヤーム湾で作戦行動を開始した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
1941年1月17日、フランス海軍の奇襲により戦闘が始まった。
打撃艦隊指令のウィラバーン大佐と防衛艦隊指令のユゥッタキット大佐は、きっと「んな、バカな!!」と叫んでしまったに違いない。インドシナ半島周辺には既にいない筈の軽巡洋艦「ラモット・ピケ」が、「アミラル・シャルネ」、「デュモン・デュルヴィル」、「マルヌ」、「タウール」などの通報艦や海防艦を率いて戦闘海域に姿を現したのだ。
人の良いタイ人は、人の悪いフランス人に完全に騙された。手玉に取られた。そして、バカにされた。しかし、それでもフランス海軍の艦隊は、タイ海軍にとっては格下。小型艦の集まりに過ぎない。
しかし、タイ海軍海軍はその格下である筈のフランス海軍東洋艦隊の海上機動力に翻弄され、その末に虎の子である旗艦HTMSトンブリーとHTMSソンクラー等を失った。
インドシナ駐留艦隊・海軍・第七戦隊・艦隊旗艦であった軽巡洋艦「ラモット・ピケ」等との打ち合いによって転覆させられた。島と島の狭く浅い海域での打ち合いであった。大被害を受けたHTMSトンブリーとHTMSソンクラーは、チャン島の砂浜へ続くかなり水深の浅い水域まで逃げた。最後に、HTMSトンブリーはとうとう転覆してしまう。
多島域をクルクルと回りながらの戦いであった事は判明している。フランス海軍東洋艦隊は、日清戦争の海戦の様に小型艦による機動性と比較的に高い練度に支えられて、危なげなく海戦で勝利した。
この海戦の勝敗を決したのは、観測機を使った情報収集能力、索敵能力であった事も見逃せない。この圧倒的な戦略の違い。タイ海軍が自らの視界に入って来るまでフランス艦隊の位置を掴めなかったのに対して、フランス海軍はタイ艦隊の位置を会敵前からおおよそは掴めていたのだ。
だからこそ、フランス艦隊は、有利な方向と有利なタイミングを選んで海戦を仕掛ける事が出来た。
フランス海軍は、インドシナ半島の東側から、シヤーム湾の外から戦闘海域へ入って来たに関わらず、タイ海軍は自分の庭であるシヤーム湾で最も奥の海域の状況を把握出来ていたのだ。タイ海軍はホームで戦いながら、アウェイ状態のフランス海軍に言い様にやられてしまった。
明らかに地の利はタイの側にあった。にも関わらずフランスは勝った。
これこそが一部のマニア界隈で知られる「コーチャン島沖海戦」である。
フランスは、腐っても列強の一角であった。とてもアジアの発展途上国が下せる様な相手ではなかった様だ。
それでも、タイ王国軍陸軍は、最初は現在のカンボジア地域へ侵攻した。続いてメコン川を越えてラオス地域へと侵攻した。その後はディエンブエンフー経由でハノイ方面へと戦線を推し進めていた。
タイ王国軍海軍は、日露戦争の日本海海戦時のロシア艦隊の様に、一方的な被害を受けた。ただし、戦闘後に関しては、タイはロシアの轍を踏む事はなかった。
タイ王国は政経共に大した害を被らなかった。海軍の象徴であったトンブリー級近代戦闘艦「HTMSトンブリー」を撃沈されるという不幸に見舞われた。だが、不幸中の幸い。大日本帝国軍の影響力を利用することで、タイ王国は一連の戦闘、陸と海の両方によって大きな被害を被りながらも一番おいしいところを見事に掻っ攫ってみせた。
なお、近代戦闘艦「HTMSトンブリー」は、コーチャン島沖海戦の後で海中から引き上げられ、しっかりと修理された。だが、各部の不調を解決することができず、その後は戦闘艦として最前線へ復帰する事はなかった。
また、姉妹艦である「HTMSシーアユッタヤー」は太平洋戦争終結後、タイ海軍によって指導されたクーデター時に鎮圧軍による激しい攻撃を受けて沈没した。
当時、クーデター派に拉致されたプレーク・ピブーンソンクラーム首相が、「HTMSシーアユッタヤー」艦内に監禁されていた。それでも、反クーデター派、つまり陸軍は気にせずに停泊中だった「HTMSシーアユッタヤー」艦を攻撃、撃沈せしめた。
しかし、プレーク・ピブーンソンクラーム首相はそこで終わるような人物ではなかった。何と、自ら水中へ飛び込んで、泳いで逃げて生還。政界へも復帰したと記録されてる。
1941年5月9日、大日本帝国の仲裁で、タイ王国とフランス領インドシナの間(正確にはヴィシーフランス(ヴィシー政権))で、東京条約が締結された。
海戦後に大日本帝国軍陸軍がインドシナへの駐留を実現させたおかげで、タイは悲願であったカンボジア領土の一部の奪還を、何となく「ぽーわーっ」とした経緯で、どう言う訳か「有耶無耶」の中に実現している。
タイ王国は、フランス領インドシナ・ラオスのルワンパバーンとヴィエンチャンから西の山岳エリア(価値はほぼない)、フランス領インドシナ・カンボジアのストゥーントレンなどの北部(僻地)、バッタンバン〜ココンなど(大穀倉地帯を含む森林地帯)の「奪還」に成功した。
ともかく、タイ王国は、第二次世界大戦が終わる前の間ではあったが、フランスが砲艦外交でむしり取った占領地の内の相当な部分を回復出来たのだ。、めでたしめでたし。
なお、アンコールワットを含むシエムリアップ州全域の奪還を強く希望した。だが、こればかりはヴィシー政権がアンコールワット遺跡に対して極めて強い拘りを示したが為に、アンコールワットの遺跡群地域だけは明け渡しの対象外とされた。
ところで、インドシナ側にとっての殊勝艦となった軽巡洋艦「ラモット・ピケ」は、日本国まで出向いて、1941年9月に修理を受けている。これは、「コーチャン島沖海戦」の後に、タイ王国航空隊による対艦攻撃を受けた損傷の修理の為ではなく、飽くまでボイラーの不調への対処であったとされている。
バンコクのチャテーウィー区。高架鉄道BTSの戦勝記念塔駅近くには、カッコイイ戦勝記念塔が建てられている。これは「タイ・フランス領インドシナ紛争」の勝利を記念して1941年に誕生したプロパガンダだ。
アヌサーワリー・チャイ・サモーラ・プーム。
略して「アヌサーワリーチャイ」だけ。
タイ語だと อนุสาวรีย์ ชัย สมร ภูมิ となる。
しかし、果たして、タイが「タイ・フランス領インドシナ紛争」の本当の勝利者であったのかどうかは疑わしい。しかし、こう言うのは言った者勝ちである。少なくとも国内向けには。
タイ王国は1945年8月、大日本帝国は敗戦。その後に、タイ王国は「タイ・フランス領インドシナ紛争」の勝利で獲得した領土の全てをフランスへ返還するしかなかった。
フランスは、失った領土を棚ぼたで返還されてウハウハでホクホクだった。しかし、"帰って来たご主人様"と言う何やら極めて特殊な地位は、すぐに手放すことになる。
彼等は、その後に起こった第一次インドシナ戦争を通じて、東南アジアにおけるすべての権威と資産を失った。そして、その流れは、アフリカなどの他の地域でも引き継がれることとなる。
おしまひ。