6 老人と少女
降って来る石が止み、ミルカの体が血に染まる水の中で力なくぷかりと浮く。
勢いよく降って来る小石の範囲からギリギリ外れていたカーフェは、魔法を放った瞬間に襲われた眩暈を無視してミルカの元へと飛ぶように全速力で泳いで向かう。
(足りなかった!)
森の中で一人、魔力の量を確かめていた時に分かってはいた。
常時当たり前のように自分が望めばいくらでも使えた魔法が、この体ではたかが上級魔法一、二発使うだけで目の前が眩み力が抜けて地に膝をつく程度になったのだと。
思っているよりも少ない魔力量に驚きはしたが、命と引き換えであったからだと思えば同時に納得もした。……でも重要視をしなかった。
何故なら、魔力が少なくても消費の少ない下級魔法を使う程度ならば何も問題はなく、今の生活になんら影響がなかったし、例え魔力が少なくとも自分は国一番の魔法使いであると言う自負があった。
だが、魔物を発見したにも関わらず、魔物と戦わず帰ってしまった時に気付くべきだった。弱くなったからこそ本能的に戦うことを避けていたのではないかと言う事に。
いざこうして実際に魔物と戦って漸く本当の意味で脳が理解した。
自分は本当に弱くなったのだと。
力がない自分に腹が立つ。たった一人の子供すら守れない弱い自分に腹が立つ。
――驕っていた自分に腹が立つ。
己の不甲斐なさに歯噛みしつつも、とにかく早く空気を確保せねばとミルカを抱き上げて水面へ浮上する。
「ミルカ!おい、ミルカ!」
腕に乗せたミルカの頭が力なく凭れかかる。
すぐに拾ったからかあまり水は飲んでいないようだが、傷だらけのまるい頬を手のひらで軽く何度も叩いても意識は戻ってこない。首元に指を当てて確かめると脈は小さく触れている。
そのままミルカの負った傷に目を落とせば、上から勢いよく降って来た石から頭を庇って出来た腕の裂傷が一番多く、特に貫通した右肩の傷が一番ひどい。
小さな体は傷だらけだ。
湖に滲む血に思わず舌打ちが漏れる。これ以上水の中に居ては血が流れすぎる。
カーフェは一分一秒も惜しいと残っている魔力を惜しみなく使い、ミルカに回復魔法をかけながらよろりと湖から浮き上がりそのまま陸の方へと飛ぶ。
やっとといった様子で魔物の手が届かない範囲の距離にある地面に足を下ろしてしゃがみ込み、ミルカの前髪を払いのける。顔色が悪い。
魔力が底をつく限界値の表れである強烈な悪寒と眩暈がカーフェを襲い、グッと眉が寄る。もうすぐカーフェの魔力が底を尽きるという合図だ。
これを超えれば恐らくあちこちの血管が切れて意識がなくなる。経験したことだから分かっているし、現に鼻から血が垂れてきた。
それでも傷が塞がっていない今、回復魔法を止める訳にはいかない。
震える手で鼻から垂れる血を拭いながらミルカの治療をしている最中、ギャギャギャ!と愉快そうな笑い声がカーフェの耳に届く。
「あ?」
睨み付ける様にその声に視線をやると魔物が傷だらけのミルカを抱えて焦りながら飛び出して来たカーフェに向かって愉快そうに笑い声をあげていた。
そして、こうしてやったんだぞばかりに風を起こすと、自分の周りの石をフワフワと浮かせ、魔物は石を数個その場に勢いよく落として見せた。
笑い声が聞こえる中、カーフェは自分の中でブチッと何かがキレる音が聞こえた。
だらりと意識のないミルカをしっかりと抱き上げて回復魔法をかけ続けながら立ち上がる。
「猿風情が調子に乗ってくれるじゃないか……《水球》」
カーフェはミルカを片腕に乗せ、塞がっていない方の手のひらを前へ出し、大きく深呼吸をして下級の水魔法を唱える。
粒子用のような水が回転しながら少しづつ集まり、手のひらの上で小さな球になっていくのを、もっともっとと念じながら見つめる。
少量の魔力だけで問題ない筈の下級魔法としては可笑しなくらいに水の球は魔力を吸ってどんどん大きくなっていく。
ほぼ空っぽの中から魔力を絞り出そうとすればするほど、ゾッとするほど力が抜けていき、脳がこれ以上はダメだと警告するように頭がチカチカする。けれども、それに反して心臓が燃えて力が湧いてくるような、ぐるぐると力がうねるような感覚がする。
火事場の馬鹿力か、己の命が魔力として消費されているのか。頭の端で考えるがそんなことはどうでもよかった。
そうして魔力を込め続けていると、徐々に大きくなっていく水の球に異常さを感じたのか、魔物は笑うのを止めて、カーフェたちに向けて浮かせていた石を勢いよく飛ばし始めた。
カーフェは大きくなっていく水の塊を頭上へ投げ、そのまま手を前方で横に薙ぎ魔法を放つ。
「《土壁》!」
カーフェの伸ばした腕より先の地面が急速に盛り上がり、分厚く大きな壁が出来上がると、襲い掛かって来た石が土の壁にガガガガガッ!とぶつかっていく。弾丸のような石は絶え間なくカーフェを狙って飛んでくるが、壁は異様な程の強度で壊れることなくカーフェとミルカを守り続けている。
その場の地面や大きな岩を叩いて砕き、小さくした石を量産していきながら土壁にぶつけ続けていた魔物は、壊れる様子がないことに焦れたのか咆哮をあげながら土壁に突進してくると、そのまま数度にわたり拳に魔力を込めて土壁を殴りだした。
魔物が拳を土壁にぶつける度に、カーフェが形成している土壁に流している魔力が押し返される感覚を覚える。
どうやら己の魔力で押しのけて破壊しようとしているらしい。
激しい打撃音の末、遂にぱらっと土壁が大きく欠け、次第にボロボロと崩壊していった。壊れていく壁の向こうで厭らしく笑う魔物と目が合い、カーフェはハッと嘲笑を浮かべる。
「なんだ?たかだか壁を壊したくらいで大層嬉しそうだな。ならコレはどうするんだ?《貫け》」
頭上を指差したカーフェが指を下へ振り下ろすとカーフェの頭上に浮かぶ水球から切り離された雨粒のような水が、鋭利な水の礫となって目の前の魔物に向かって一直線に降りかかり、言葉通り魔物の体を貫いた。
さっきのミルカと同じように。
水の弾を受けあちこちから血を流す魔物は痛みで悲鳴を上げ、片目を押さえながら背後に一足飛びに飛び去りカーフェたちから距離をとった。
ひとまず魔物の片目は潰したが、体が大きく丈夫なだけあって致命傷には至っていない。
カーフェはそのまま此方に近寄らせない様に、水の礫を自分たちと魔物の間に延々と降らせ続ける。
魔物は片目を押さえながらカーフェたちの後ろに大小様々な石を浮かせ、背後から先ほどと同じように石を加速させて攻撃を仕掛けてくるが、カーフェは何でもないかのように先ほどと同じに土魔法で壁を作って防ぎ、お返しとばかりに水の礫で魔物の死角になった魔物の右足の小指を貫いた。
ぐらりと魔物がよろける。
足の小指を失くしてバランスが取れなくなったのだろう。痛みも合わさって魔物の余裕そうだった顔が歪む。
圧倒的格下だと思っていた相手に一方的に攻撃され、且つ、一方的に攻撃できない事に魔物の中で負けるかもしれないと言う予感がよぎったのだろう。
苛立ちを表すかのように喚きながら地面を拳で殴り、無作為に周りの木をなぎ倒して当たり散らし始めた。
その様を冷めた目で見ながら、カーフェはちらりとカーフェの首もとに頭を寄せて気絶しているミルカを抱き直して顔を覗き込む。
依然、血を出し過ぎて顔色は悪いし、湖で泳いでいたこともあり体力を消耗して体も濡れて冷たい。尚悪いことに、回復魔法の効きが悪い。小さな傷はあらかた治ってはいるが、一番治したい大きく裂かれたり貫通したりしている場所は塞がり切っていない。
何故だ。ミルカに魔力がないからか?
早く家に戻って安静にさせなければ。回復魔法が効きづらいのであれば薬を飲ませて様子を見なければならない。
一通り自分の近くにあった木々を破壊しつくして気が済んだのか、息荒くざわざわと自身に魔法を纏わせ始めた。魔物の黒っぽい茶色い毛がチリチリとまるで炎のように燃えだす。
全身の体毛がメラメラと燃え上がると、地面に倒れた木に炎を纏った拳を振り下ろした。木は勢い良く燃え上がり一瞬で消し炭と化す。
炎の熱気が漂ってくる。どうやらあの形態が魔物の奥の手のようだ。
「なるほど?そりゃ、そんなナリであんな小石を飛ばす小手先の魔法なだけはないわな。やっと本気でやる気になったって事か?だが……もう遅いぞ馬鹿猿が」
そう言ってカーフェが頭上でずっと浮かし続けていた、空に出来た水の塊を指先一つでスイッと魔物の真上へ移動させた。
魔物は自分の上に移動した水を見て、大量になぎ倒した木の一本に風魔法をかけて自分と水の塊の間にその木を浮かせると、頭上でぐるぐると高速で回転させる。大きな木が止まることなく回転し続ける様は、まるで巨大な円盤の盾のようだ。
その盾で先ほどの攻撃を防ぐつもりのようだが、そんなものは関係ない。
「……《密封》」
カーフェが魔物の顔へと白けた顔で指先を向けると水球はその塊のまま魔物めがけて飛んでいく。
魔物は己に向かって来る水を回転させた木で吹き飛ばすが、吹き飛ばされた水は意志を持ったかのように色々な方向から魔物の顔へと集結していく。そうして近づいてくる水を手で払いのけているが、液体である水はいとも簡単に指の間を通って行ってしまう。
「何故また同じ攻撃がくると思っているんだ?馬鹿が」
完全に顔が覆われた魔物が、纏う炎で蒸発させたり、首を振っては口の周りの水を剥ぎ取るように掻き毟ったり、水自体を掴もうと苦心しているのをカーフェはじっと見る。
戦っている時の魔法の使い方で凡その見当はつけていたが、先ほどの土壁の時のように魔力を流し込んで力づくで奪う方法を使わない所を見る限り、それが出来ないのだろう。
風魔法の攻撃方法が物を浮かせて勢いよく飛ばすだけであったり、土魔法で作った土壁の破壊方法が拳に乗せた魔力を叩きこんで力づくでどうにかするなど脳筋としか言いようがなかったし、火魔法の使い方も体に纏わせていた事からして、恐らくそのまま接近戦で戦うつもりだったのだろう。
魔法がなくともあの恵まれた巨大な体躯と力があったからこそ何とかなって来たからこその単純な魔法や魔力の使い方だ。
段々と呼吸が出来ずに苦しくなったのか、纏っていた炎も消え、地面に倒れて水球の中でジタバタともがき苦しみだす。
カーフェを排除すればと今更ながら手を伸ばしてくるが、そんな状態の相手から距離をとるなど容易く、届かない範囲へ飛び、魔物が水球の中で息絶えていくのを見守る。
完全に動かなくなった所で魔物へ手のひらを向け、握りつぶすように拳を握って水球を解く。風船のように破裂した水球の中からドンッと魔物の頭が地面に落ちる。
ピクリとも動かない魔物に向けて再び手を開く。
「《火葬》」
囂々と息絶えた魔物の体が燃える。
カーフェはその側で震えのない自分の手を見つめて握ったり開いたりを繰り返し、そして、ずっと燃えるように熱い心臓の辺りに触れた。
今も湧き続ける力に深々と熱い息を吐いたカーフェはミルカを抱き直して、魔物を一瞥するとよろける事もなくふわりと空を飛び家路へと向かった。