5 老人と少女
ミルカは言われた通りにただただ真ん中に向かって泳ぐ。走ってきたまま泳ぎだしたから呼吸は苦しいし、足は疲れている。けど、ミルカは力を振り絞って足をバタつかせて前に進む。
バシャバシャと湖面を蹴って水が弾かれる音の向こう側からドーン!やガッ!と激しい音がずっと聞こえる。
カーフェがミルカの後ろを泳いで来ている訳じゃなくて、その場に留まって魔物を足止めしてくれているのが分かる。
「はぁ……はぁ、ぷあ、は、うぇ」
ミルカはカーフェに言われた通り一生懸命、真ん中に行く!真ん中に行く!と心の中で唱えて広く大きな湖の中をひとりでも泳ぐ。けれど、どれだけ聞こえないふりをしていても、どうしても耳は後ろの音を拾おうと神経が向かう。
ミルカの耳に魔物の叫び声や物の壊れる音が届く度に、泳いでいるのとは別の理由で心臓が痛くなって呼吸がもっと苦しくなる。
ミルカの中の後悔がどんどん膨らんでいく。
カフェじぃの言うことを聞いておけばよかった。マルンの実なんて別の日にすればよかった。危ないから家から出るなって言ってたのに勝手に出掛けたからこんなことになったんだ。
居ても立っても居られず、カーフェの無事を確かめたくてその場でくるりと後ろを向く。
濡れた顔を手の甲で拭って陸地の方を見れば、湖近くの陸地で戦うカーフェと魔物の姿が視界に入る。いや、むしろ戦っていると言うよりは魔物が一方的に攻撃をして、カーフェがずっとギリギリのところでなんとか避け続けている感じだ。
魔物は森一番の巨木程の大きさはないが、その大きさは人の何倍も大きい。ミルカからしたら後ろにひっくり返りそうになるくらい見上げないと魔物の顔は見えない。そのくらい大きいのだ。
おじいちゃんだったカーフェを見上げる時も大きいなと思っていたのに、魔物はそれ以上だ。そんな魔物をこの位置から見ると、まるで魔物の近くにいるカーフェがまるでオモチャみたいに小さく見える。
今にもカーフェが潰されてしまいそうに見える。
キューッと狭まる視界の中、魔物の両組んだ両手がカーフェに向かって振り下ろされた。ソレを右に左に上に下にと魔物を翻弄しながらカーフェは魔物の攻撃を身軽に避ける。
いつ当たるかもわからない。
「っ、カフェじぃ!」
その様が怖くてミルカの体は感情のままに陸に向かって勝手に泳ぎ出した。
バシャバシャと必死に水を掻くが、かなり陸から離れている所まで泳いでいるから陸が遠い。
カーフェを見ながら突き進んでいると、上に飛んで攻撃を避けていたカーフェを薙ぎ払うように魔物の腕が大きく横に振り払われた。
咄嗟に頭をガードするように構えたカーフェの左腕に大木のような腕が当たり、カーフェが湖の中へと吹き飛ばされた。
「カフェじぃ!」
ミルカがいるところからそんなに遠くない所まで飛んできたカーフェは意識がないのか湖の中から顔を出さない。
慌てて飛ばされたであろう位置まで泳ぎ、思いっきり空気を吸って潜る。
真っすぐ下に下りて、水中で視界を遮る邪魔な髪の毛を手で払いながらカーフェを探す。真ん中に行けば行くほど深い湖だが、幸い湖の中は割と澄んでいて周りは思っているより見やすい。その中で一部、地面の土が異様にモクモクと煙っている。
あそこだ!
もう一度浮上してまた目いっぱい空気を吸い潜ってカーフェの側まで水を掻く。
土が舞い上がって濁った水の中を進むと、鮮やかな黄緑色の藻が揺れる中で、目を閉じて浮いているカーフェがいた。急いで近づいて、怪我をしていないか確かめようと顔を覗くと急にカーフェの目がカッ!と見開いた。
「ゴボッ!?」
いきなり開いた目にビックリして空気を吐き出してしまって慌てて口を手で塞ぐ。
お、怒ってる……。
カーフェが物凄い顔で怒っていた。
しかし、ミルカに怒っているのではないらしく、目の前にいるのがミルカだと分かった途端、カーフェは怒りの表情から何でいるんだって言う怪訝な顔に変わった。そして、すぐにミルカが戻って来ようとしていたことに気付いて、ミルカの顔を指を差しピッと別の場所を指差す。
カーフェが指差す方向はミルカが泳いで来た方角だ。中央に行けと言われたのは分かったがミルカはフルフルと首を横に振る。
行かないと言う気持ちで口をギュッと引き結びながら真っすぐにカーフェを見つめていると、カーフェは眉を寄せて苛立った様子で緩い湖底を蹴ってミルカの腰を魔物の腕が当たっていない右腕で掬って二人で水面へと上昇した。
「んの、馬鹿娘!言われた通りにあっちに行ってろ!なんで来た!まだあの猿は生きとるんだぞ!見て見ろ!」
「だって、私のせいだもん!……わたし、わたしが外に出たからー!ひぃぃん!カフェじぃが怪我したー!ごめんなさいー!」
「バッ、こんな所で泣くな!そんなもんは関係ないし、気にしとらん!怪我も大したことないわ!《癒せ》!……ほれ、見ろ!なんともないわ!」
「ひぃぃん!」
「泣くなと言ってるだろう!」
ミルカが泣きながら謝ってカーフェに怒鳴りながらあやされていると、ミルカたちのいる近くにドボンっ!と何かが飛んで来て、そこから大きな水柱が立ち湖面が大きく揺れた。
波紋の中心に引き戻されては押し返され、激しく揺れる湖面になんとかバランスをとっていると、水柱がミルカたちの頭上で水のかたまりとなって襲ってくる。
まるで激流にのまれる葉っぱのように翻弄される。
「あぶっ!ゴホッゴホッ!」
「ゴホゴホッ、フンッ、クソ!鼻に入った!あんの猿!」
カーフェがフンフンとほんの少し赤くなった鼻から水を抜きながら、陸地を睨みつけるように見るのにつられてそっちを見る。ミルカたちの姿が面白かったのか魔物が笑いながら手を叩くと次も同じことをするために石を拾っているのが見えた。
「あのクソ猿、ワシらを的当ての的にして遊んでやがるな。見つからない様、潜って移動するから離れるなよ」
「うん」
魔物がさっきよりも大きな石を地面から引き抜こうとしている隙をついて水の中へと潜り込む。
魔物の攻撃を避けたり、魔物に吹き飛ばされたりして疲れている筈なのに、先に進むカーフェの泳ぎは速く、ミルカは少し遅れをとっていた。疲れた足を必死でバタつかせて先ほどの場所から少し離れたところでドボン!と再び石が投げ込まれた。
振り返ると、さっきまでミルカたちが居た所に大きな石が沈んでいっている所だった。
(危なかった。あそこにいたら、あの石に当たってた)
ホッとして水面を見上げると、大きな波紋の中、ポツポツポツポツ……とまるで雨粒が水面を叩くような小さな波紋がいくつも水上に出来ていた。
あんなに晴れていたのに雨?と首を傾げていると、ミルカより少し前を泳いでいた筈のカーフェが、水中で何かを叫びながらミルカに向かって手を伸ばしていた。
キラキラしたモノが自分の体の周りに見えたその瞬間、大小関係なく色々な大きさの石が槍のように降り注いだ。
ありえないくらい勢いよく降って来た小石がミルカの体中を掠める。反射的に頭を庇うが、その前にミルカの右肩が石に貫かれ、あまりの痛みに大声で叫んだ。
一番激しい痛みを感じる肩を押さえながら体を丸める。
水の中でミルカの体のいたる所から血が流れ、水の中をモヤモヤと滲んでは雲散していく。痛い。全部痛い。痛いよ。死んじゃう。
――カフェじぃ。
ミルカの意識はフッと暗くなった。