【Others Side】首輪からの解放
【Others Side】
「この階の奥、左から3つ目の部屋だ」
大蔵銀子は情報提供者の言葉を脳内で反芻しながら、築40年を超えるアパートの廊下を歩いていた。
木製の手すりは塗装が剥げ、あちこちに亀裂が走っている。
「まゆ、そっちはどうだ?」
呼びかけられた黒川まゆは、キャバ嬢のような派手な服装で廊下の端に立っていた。明らかに場違いな風貌が、この場では異彩を放ち目立っている。
「静かなもんだ、誰も来そうにねえ。こんな古くさいアパート、住人もろくにいやしねえしな」
派手な色の唇を歪めながら、まゆは廊下や外の景色を見渡した。アパートどころか周辺一帯が静寂に包まれているかのようだ。
「梨々花、開けてくれ」
水島梨々花は動きやすい私服姿で銀子の隣に立っていた。手には小さなポーチを持っており、中から一本の鍵を取り出した。
「不動産屋のお兄さん、結構簡単に貸してくれましたねえ」
「奴にはいくつも貸しがある。この程度の協力は惜しまんだろう」
「では開けますね」
「瑠璃、そっちも異常ないな。見張りはもういい。まゆも来い」
瑠璃とまゆは無言でうなずくと、目的の部屋に近づいた。
梨々花が鍵穴へ鍵を差し込んで回せば、想定通りにドアが開く。
「開きました」
「入るぞ」
4人は手際よく部屋に上がり込んでドアを閉めた。中は六畳一間の粗末なアパートで、生活感のある散らかりようだった。
「探せ、金庫があるはずだ」
銀子の指示に従い、手分けして部屋を捜索し始める。
押し入れの中や棚の引き出しなどを丁寧に調べていった。
「あった、見つけたぞ」
それほどの時間をかけず、まゆが台所の収納棚から小さな金庫を引っ張り出した。
「梨々花、これ頼めるか?」
「お任せください」
穏やかな笑みを浮かべた梨々花は、ポーチから細い金属の道具を取り出すと、金庫の前に座り込んだ。まるで繊細な工芸品を手がけるかのような手つきと集中力で、彼女は金庫の鍵穴に道具を差し込んでいる。
「余計な手間かけさせやがって。この部屋の野郎は逃亡中なんだろ? 金も持っていかねえんじゃ、すぐ干上がっちまうだろうに」
「着の身着のまま逃げたようだな。自分の部屋にノコノコ戻るような真似は出来なかったのだろうが、金がなければ逃亡生活など続かない。頼る先もマークされているだろうな」
「そりゃそうだ。つーか利息の返済にも苦しんでたんだ。この金庫もどうせ空じゃねえのか? アタシらの報酬は取り半だぜ? 何も回収できなけりゃ、稼ぎはゼロだ。やってらんねえな」
「情報を得た以上は確認しなければならん。無駄足になってもな」
その時、スマートフォンを見ていた瑠璃の表情が変わった。
「グループメッセージです……すぐに見てください」
ただならぬ様子を感じ取った全員が、各々のスマートフォンを確認した。
『すっごいよ、6億だよ、6億円! むしろ6億超えたから。マジのホントだから! 明日、詳しく話すから絶対来てね!』
「……マジか」
まゆが息を呑んだ。梨々花の手から金属の道具が落ち、畳の上で小さな音を立てる。瑠璃は無言のまま、瞳だけが大きく見開かれていた。
「これ、まどかからのメッセージだがよ、打ったのは明らかに葵だろ。ははっ、まさか冗談じゃねえよな?」
「6億だ。あの葵でも、金のことでこんな嘘は吐くまい」
銀子の声には、普段の冷静さがどこか欠けていた。
梨々花は左手首にある青い腕輪を無意識に触る。
返済まで遠いと思っていた道のりが、一瞬でゴールテープを振り切っていたかのような感覚をこの場の4人は覚えていた。
「夢じゃねえよな」
まゆの声にも、信じがたい現実に直面した者特有の戸惑いがあった。
「……ここは、手早く済ませましょう」
瑠璃がようやく口を開く。珍しく、普段よりも高いトーンの声だった。
「そうだな。さっさと終わらせて引き上げるぞ。梨々花、開けてくれ」
「ふふ、集中してやっちゃいますね」
梨々花は機嫌良さそうに金庫の解錠に再び取りかかり、まゆと瑠璃は散らかした部屋を元通りに戻していく。銀子は油断なく外を見張った。
「ようやくだ、ようやく抜け出せるな」
銀子が独り言のように呟くと、ほかの3人は黙ってうなずいた。
ぼろビルの事務所に戻った4人は、それぞれ椅子やソファに腰かけていた。
腰は落ち着けていても、雰囲気は明らかに落ち着いていない。
「いいか、あの稼ぎで6億だ。パーティー7人とクランに入れる分で割っても、7,500万になる。それに比べればおまけ程度だが、魔石の売却でもそれなりの金が加算されるはずだ」
「それがアタシら、それぞれの取り分か。とんでもねえな」
まゆが驚きと嬉しさ、あるいは呆れが混じったような声を上げる。
「わたしたちの借金は完済できちゃいますねえ。想像以上のスピード感でした」
「完済……か」
銀子の表情が複雑に揺れる。かつて無謀な取引に失敗し、借金を背負わされてからずっと、彼女の左手首にはこの腕輪があった。それが外れる日が来るなど、少なくともまだ遠い未来のことであったはずだ。
「永倉葵、やはりただの小娘ではない。規格外の小娘だ」
その声には苦笑と感謝が混じっていた。
「今更か? あいつは普通じゃねえよ。蒼龍なんてすげえレジェンドが、目をかけてんだぜ?」
「永倉さんも、九条さんたちも、不思議な力を持っていますよねえ」
「奇跡みたいな話です。自分で言うのもおかしいですが、私たちのような怪しい者と組んでくれて、本当に感謝ですね」
「そりゃあな。アタシだって、あいつらには頭が上がらねえよ」
瑠璃がしみじみと言えば、まゆがため息混じりに応えた。
「完済後は、お前たちはどうするつもりだ?」
銀子の問いかけに、一瞬の沈黙が訪れる。
完済後の未来。それは、それぞれが心の中で夢見ながら、軽々に言葉にはできなかったことだ。
「ずっと先の話か? だったらアタシは、やっぱ銀座に店を持ちてえな」
まゆが明るく朗らかな調子で言う。
「ハイソな客しか入れねえ会員制のバーでよ、いつも派手な服着て、常連の客と楽しくやってよ」
「わたしは海外旅行とカジノですかねえ、やっぱり。世界中を荒らして回りたいですねえ」
「……何をするのも自由だが、借金はやめておけ。瑠璃はどうだ?」
「いつか実家の道場を立て直したいです。家族はもういませんが、せめてそのくらいは」
銀子に問われ、瑠璃は静かに答えた。
「お前らしいな」
「銀子は? そういうお前はどうなんだよ」
まゆが問いかけ、梨々花と瑠璃も銀子を見つめる。
「私はそうだな、金貸しの資格を取るのもいい。正規の金融業者になる、というのはどうだ」
「はあ? まさか、冗談だろ?」
「冗談ではない。私が貸す側に回っても、おかしなことはないだろう?」
銀子はその場の思い付きがことのほか気に入ったのか、珍しく表情と声に熱を帯びていた。
4人は沈黙の中でそれぞれの未来を思い描く。瑠璃が静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「でも、まだ左手首には腕輪があります」
彼女の言葉に全員が腕輪に目を落とした。青く光る金属は、彼女たちの肌にぴたりとくっついている。
「あと一歩だ」
銀子が立ち上がり、拳を強く握った。
「明日、葵たちに詳しく話を聞いて、いつ金が入るのか確認しよう。それから直接、話をつけに行く」
「どうせ意地悪く、あれこれ難癖つけて、すぐには外してくれねえだろうな。なんせ急な話だ。逆にどうやって金を手に入れたか、根掘り葉掘り聞かれるに決まってる。スキルのことは話せねえし、下手に嘘をつけば勘ぐられる。言い訳が面倒だな」
「なに、適当に誤魔化すさ。我々は借りた金を返す。それだけの話だ。まさか、それに文句をつけられまい?」
晴れ晴れとした表情の銀子の声には、力がみなぎっている。
「そうですよ。借金とは縁を切って、これからは使いきれないくらい稼ぎましょう。葵ちゃんたちと一緒に」
「もちろんだ。今回はたまたま大当たりだったが、葵たちのスキルは本当に規格外だ。あれを活かさない手はない。それに何をするにも金がかかる。私は未来の商売やコネづくりのためにも、まだまだ金が必要だ。お前たちもそうだろう?」
銀子は将来を考えながら冷静な判断を下している。借金は別として、金が必要なのは皆も同様だった。
「元より腕輪が外れても、私は葵たちと一緒にいたいと思っていました」
瑠璃の言葉に、ほかの3人も静かに同意を示す。
「アタシもだ。これからは引け目を感じることもねえ」
事務所の窓の外には、入り口で寝そべる監視役のホームレスがいる。あの存在が重荷だったが、今ではもうすぐ解放されるという希望が胸に灯っている。
「さてと、久々に贅沢でもしてみるか? コンビニで酒でも買いこんでよ」
「どうせなら駅のほうに何か食べいきますか?」
「あ、ちょっと気になるレストランがあって……」
4人は楽しげに事務所を出る準備を始めた。
銀子はスマホを取り出し、葵からのメッセージをもう一度見た。あのふざけた冗談のような文面に、これほどの救いがあるとは思ってもみなかった。
「すまないな、恩に着る」
彼女の小さなつぶやきは、普段よりもずっと柔らかな響きを帯びていた。




