夏目新
24
両親から愛された記憶はない。いや、生まれてから一度も誰かに愛されたことなんかなかった。
夏目新はそれなりの家系で生まれた。父は会社の社長、母は社長夫人だった。夫婦仲は冷めていて、父にはずっと愛人がいた。母もそのことを黙認していて、お金さえあればいいというような人だった。家には使用人が何人かいて、新の世話は使用人達がしてくれた。
勉強も運動もできて当たり前、テストで百点をとっても、かけっこで一番になっても誰も褒めてはくれなかった。それでも新は頑張って努力した。いつか、いつかは認めてもらえるかもしれない、振り向いてくれるかもしれないと健気に頑張っていたけれど、そのいつかが来ることはなかった。
学校で友達はそれなりにできたけれど、誰のことも心から友達だとは思えなかった、悠佑と出会うまでは。彼とは三年生で初めて同じクラスになった。悠佑は内気な性格で友達が少なかった。だからか新が話しかけると、とても嬉しそうにしていた。そのまなざしが純粋そのもので、新の心は浄化されていった。悠佑が笑うと、心に花が咲いたように暖かくなった。新にとって悠佑は唯一無二の存在で、悠佑もそう思っていたと信じていた。
小学校四年の時、両親が離婚し、ちょうどその頃から悠佑は樹と一緒にいるようになった。新は裏切られた気持ちになった。
月城樹は、クラスの中心人物で人気者だ。両親が離婚したことはこの際もうどうでもいいが、悠佑が自分のもとから離れていくことは考えられなかった。樹といる悠佑の表情は輝いて見えて尚更腹が立った。悠佑は、悠佑だけは新と共にいてくれる存在だと思っていたのに…。
両親が離婚して母が出ていくとすぐに、父の愛人が子供を連れて家に入ってきた。再婚したらしい。新の家での肩身はさらに狭くなった。弟ができた実感はなかった。新は愛人に嫌われていた。家でも、学校でもどこにも新の居場所はなかった。
六年生の修学旅行で、それは起こった。夜に始めた恋バナで最後に残った悠佑に、新は質問をした。
「悠佑の好きな人って誰?」
今思えば悠佑とそういう話をしたことはなかったが、そもそも悠佑に好きな人はいないのかもしれない。そう思ったが、悠佑からは予想外の名前が聞こえてきた。
「樹」
「………え?」
「あ、だから樹」
聞こえなかったわけではない。理解ができなかった。それでももう一度言った悠佑から、聞き間違いではなかったことが分かる。部屋は暗くて悠佑の顔はよく見えなかったけれど、明らかに恥ずかしがっているのが分かった。部屋の空気が凍り、誰も何も言わなかった。そのすぐ後に見回りの先生が来たので布団をかぶったまま、先生が出ていってからも、そのまま誰も話し始めることはなかった。
朝、起きてから同じ部屋の一人が新にこっそり耳打ちをした。
「なあ、昨日の、やばくね?」
もう一人も新に近づき、
「男が好きとか。気持ち悪いよな」
「それな。てか俺らもそーゆー目で見られてるってこと?」
と言った。
(気持ち悪い?)
そんな感情、新はもっていなかった。確かにびっくりしたし、理解が追い付かなかったけれど、別に嫌悪感はなかった。けれど、ずっと周りの空気を読んできた新は、友人の言葉を否定することができなかった。
「だよな」
そう同調すると、二人は味を占めたように悠佑のことを悪く言い始めた。もちろん悠佑には聞こえないように。そして修学旅行が終わった帰り道に、友人からある提案をされた。
「修学旅行明けの学校でさ、黒板に悠佑は男好きって書いて反応みてみよーよ」
何と性格の悪い。
「いいじゃんいいじゃん。友達少ないくせに樹を独り占めして図々しいよな(笑)」
「分かる。てか樹がいなくなったら悠佑一人になるんじゃね(笑)」
(そんなこと、ない)
周りが盛り上がっているなかで、新はあることを考えていた。本当に最低で最悪のことだ。もし、悠佑が一人になったら、自分よりかわいそうな人間になるんじゃないか、と。悠佑を見下せるのではないかと考えてしまった。悠佑の学校での居場所がなくなったら、新のこの孤独な気持ちも少しは晴れるのかもしれない、そんなことを思い、単純に興味が湧いてきてしまった。
「夏目、聞いてる?」
「え、何?」
考え事をしていた夏目は、友人たちの声にハッとする。
「だーかーらー、夏目が黒板に書いてよ」
「は?」
「夏目も乗り気なんだし、いいだろ?」
自分の今までの立ち回りを恨んだ。でも今更、変えることなんてできなかった。
「分かった…」
この雰囲気の中で新は頷くしかなかった。この時の自分の選択を一生後悔することになる。
その日は早く学校に集まって、黒板に文字を書いた。友人たちも周りに落書きをしたりしている。もう後戻りはできない。
続々と登校してくるクラスメイトに混ざって、悠佑が来た。悠佑が扉を開いた瞬間、クラスがしんと静まり返った。新の周りはくすくすと笑いを押し殺している。新もそれに合わせて顔を引きつらせながらにやにやしていると、悠佑と目が合った。黒板に気づいた悠佑は新と目が合うと、何とも言えない表情になった。新の顔が引きつる。もう笑うことはできなかった。
「みんな聞いて~、悠佑の好きな人は樹でーす!男子は気を付けたほうがいいぜ、いつ好かれるか分かんないからさ~(笑)」
友人の一人が声を出す。
周りにいる男子が「こえー(笑)」と言って笑い、女子たちは「男子サイテー」と言いながらも顔は笑っていた。友人が新の方を振り返り、お前も何か言え、と言わんばかりの表情でこちらを見た。新はどうにか言葉を口に出した。
「てかさ、樹が自分を好きになってくれると本気で思ってんの?」
「気持ち悪い」
こんなこと、本当は言いたくなかった。目の前の悠佑の顔を見ていられなかった。悠佑が傷つくことなんてわかりきっていた。でも、新があの時悠佑に裏切られたような気持ちを、今悠佑も感じているのかもしれないと思うと、ほんの少しだけ優越感があった。
その後も登校してくる生徒たちは黒板と周りの様子を見て気まずそうに席についていく。床に座り込んだ悠佑に声をかける者はいなかった。予鈴のチャイムぎりぎりに樹は来た。入ってすぐに座り込んだ悠佑に気づいて駆け寄り、「どうした?」と声をかけた。悠佑の目から涙がぽろぽろ流れた。新は気持ちが高ぶり、勢いに任せて樹に話しかけた。
「樹~そいつ樹のこと好きらしいぜ。そんなに優しくしたら、もっと好かれて襲われちゃうんじゃね~の?(笑)」
新の言葉に周りがぎゃははと下品な笑い方をする。樹が黒板に気づき、そして悠佑を抱きしめた。予想外の行動だった。
「おいおい、そういうことすると勘違いするんじゃねえの~?(笑)」
樹の行動に驚きながらも、焦った声色で言葉を紡ぐ。
「だから?」
「え?」
てっきり樹もクラスの人達と同じように、すぐに悠佑から離れると思っていた。
「だから、悠佑が好きな人のことでお前らに迷惑かけたのかよ」
「…っ」
何も言い返せずに唇を噛んだ。本当に何も言えなかった。樹の言葉は正論で、間違っているのは自分たちだから。
本鈴が鳴り、樹が黒板を消していると、少し遅れて先生が入ってきた。
この日から悠佑に対するいじめが始まった。女子は悠佑が近づくと「気持ち悪い」と言ったり、くすくす笑ったりして馬鹿にする、男子は悠佑とあからさまに距離を取り、少しでも悠佑に近づくとわざとらしく身体をそらしたりした。先生も明らかに違うクラスの様子に気づきながらも見て見ぬふりをしていた。次第に悠佑の話は同級生の間に行き渡り、悠佑の味方は学校でただ一人だけになった。
樹だけはどんな時も悠佑のそばを離れなかった。次の日も、また次の日も樹はいつも通り悠佑に話しかけた。
このころ、新は家での扱いがさらにひどくなっていた。弟に近づこうものなら、継母が叫んで特に何もしていなくても新が悪いというようにまくしたてた。父は家にいないことが多く、いても話すこともできない。使用人も継母には頭が上がらず、新の味方になってくれる人はいなかった。
新は悔しかった。ここまでのことをされておいて、樹が悠佑から離れなかったことが羨ましかった。もし新が同じ状況になったとき、味方になってくれる人はいるのだろうか。きっといないだろう。いつの間にか悠佑に対して妬むような気持ちが生まれていた。
結局卒業まで悠佑はクラスでいじめられ、樹は悠佑を守った。
中学校の入学式で、一人ずつ名前を呼ばれる中、樹がいないことに気づく。そこで友人たちが再び新に耳打ちをした。
「樹、いなくね?」
「今度こそ、悠佑一人になるんじゃね?」
あの頃乗り気じゃなかった新もこの時は、友人たちと同じ気持ちだった。悠佑を一人にしたかった。自己満足のためだ。悪いことだと分かっていても、どうしようもできなかった。
「うん、悠佑のクラス行こう」
そうして、新たちはあの時と同じことを繰り返した。悠佑と話していた前の席の男子は明らかに悠佑を拒絶した。今度こそ、悠佑の味方は一人もいなくなったと思っていた。それは望んでいたことのはずなのに、いざその時が来るかもしれないと思うと全く嬉しくなかった。ずっと自分の行動と言動と心が矛盾している。悠佑の顔を見ると、胸が痛かった。だから悠佑が奈月といるところを見て、少しホッとする自分もいた。
悠佑が完全に一人にならなかったことは、悠佑の人柄故だろう。じゃあ自分は?自分は人に好かれる性格だろうか。今までずっと周りの顔色を窺って生きてきた。一人は嫌で、それでも友達といても孤独感が拭いきれなくて、大切な人をいじめて、こんな自分を誰が好きになるだろうか、誰が愛してくれるんだろうか。新の中で何かがプツリと切れる音がした。
もう、やめよう。新は悠佑に何かを言うことをやめた。友人と縁を切ることはできなかったけれど、自分から悠佑を悪く言うことはやめて、適当にあしらうようになった。悠佑のものを捨てる友達の目を盗んで、ゴミ箱からそれを拾い上げ、悠佑の机に置いた。こんなことが償いになるとは思っていなかった。結局自己満足のためにやっているだけだと思う。今更悠佑に許されるなんて、思う自分を許せない。
高校は中学に近いところにした。友人たちとは被らないように気をつけた。でも高校で新しく友達を作る気にはなれなくて、ピアスを開けて髪をオレンジに染めた。父も継母も使用人も何も言わなかった。予想通り、新の見た目は他人を寄せ付けなかった。
座席を確認したとき、自分の隣の席の名前に見覚えがあった。すぐに誰かは思い出せなかったが、彼女が入ってきた瞬間鮮明に思い出した。椎名奈月だ。中学時代、悠佑のそばにいた人。付き合っているという噂を友人たちが流していたけれど、新は二人が恋人よりも特別な関係のように思えた。奈月も新を見て表情が固まった。当然の反応だと思う。それでも新は奈月に話しかけていた。
「あれ、あんた悠佑の…」
「わ、私のことをご存じで…?」
奈月は新が覚えていたことに驚いたらしい。
「そりゃ、もちろん」
それ以上は会話が思いつかずに黙る。
しばらくして担任の先生が入ってきて、隣同士で自己紹介をするという提案をした。周りは緊張しながらも、新たな仲間と自己紹介で盛り上がっている中、奈月と新には気まずい空気が流れていた。
「俺のこと、なんて聞いてる?」
想像はできるけれど、怖いもの見たさというかそんな気持ちで聞いたが、奈月が言葉につまったので、急に怖くなって慌てて
「いや、やっぱり今の忘れて」
と言った。
「椎名奈月。よろしく」
奈月は短くため息をついた後、簡潔に自己紹介をして、前を向き直った。
「あ、うん。よろしく」
自分の口から弱弱しい声しか出てこない。
それ以降奈月と必要以上に話すことはなかった。友達も無理に作らなかったし、新はクラスのみんなから怖がられていた。奈月は美しい見た目から一目置かれていたが、誰かと特別親しくしている様子はなかった。
ある日の放課後、日直だった新は先生に雑用を頼まれた。相手の女の子はすでに教室にはいなくて、残っていたクラスの人達も逃げるように帰っていった。新は自分の席に座り、頼まれたとおりにホチキス止めを始めた。中々量が多い。今日は帰りが遅くなるだろうと思ったが、新の帰りが遅くなって心配してくれる人なんていなかった。
教室に一人でいると突然孤独感に襲われて、少し寂しくなる。この状況を作ったのは他の誰でもない自分自身なのに。
そんなことを考えていたら、勢いよく教室の扉が開かれた。扉の方を見て、固まる。奈月だった。走ってきたのか、息と肩があがっている。
「何してるの?忘れ物?」
新は奈月に声をかけた。奈月は上がった息を整えると、
「こ、こっちのセリフだよ!何で、一人で日直の仕事してるの⁉」
奈月が大声で叫んだので、新は委縮したように困惑する。
「だって、先生に頼まれたし、教室に俺しかいなかったから。相手は、用事でもあったんだろ」
「…」
奈月はギュッと口をつぐみ、自分の席をひいた。
「私も、手伝う」
「は…?」
新はびっくりして奈月を見つめた。
「いいよ、帰れよ」
少し突き放すように言った。遅くなったら、家族が心配するだろう。それに暗い中帰るのは危ない。しかし、
「やだ」
新の言葉に被せるように奈月は言った。まるで何を言われるか分かっているみたいだった。意外な奈月の返答に新はまたも困惑した。
「それに、二人でやった方が、早いでしょ?」
新の机に置いてある紙を持ち上げながら、そうほほ笑んで言った。だから、
「勝手にすれば?」
と言った。仕方ないというような言い方をしながらも内心は嬉しくて、新の顔が赤いのは窓から差し込む夕日のせいだと、奈月に思ってほしかった。
量が多いと思っていた仕事も、二人でやったからか意外と早く終わった。それを新が先生のところに届けに行く。早く終わったと言っても、外はもう薄暗くなっていたので、奈月を家まで送るために下駄箱で待っているように言った。先生に届けた後、急いで奈月のもとに向かおうとする新の視界に自動販売機が映りこんだ。
(お礼に何か買っていこう)
奈月の好きなものが分からず、とりあえず炭酸系のジュースと、コーヒーを買って、下駄箱に走った。奈月は大人しく下駄箱の前に立っていた。
「あー、今日はありがとう」
なんだか恥ずかしくなってしまい、ぶっきらぼうに飲み物の一つを奈月に向かって投げた。
「これ、炭酸だけど。投げちゃって大丈夫?」
そう言う奈月に新はすごい速さで振り返り、彼女から飲み物を奪って、持っていたもう一つを押し付けた。自分のミスが恥ずかしすぎる。
「ありがとう」
奈月のほほ笑んだ顔に新の心臓は射抜かれた。
(好きだ)
自分の恋心を自覚した新は、奈月の目をそらして歩き出した。
翌日から、新は奈月の後をついて歩くようになった。一晩考えても、奈月のあの笑った顔が頭から離れずに、思い出すたびに胸が苦しくなった。朝、奈月が教室に来た時は挨拶をしたし、休み時間のたびに話しかけた。お昼ご飯にも誘った。奈月も拒否しなかったので、一緒にご飯を食べた。
新学期になり、クラスで委員会・係決めを行うことになった。前日に奈月にどれにするか催促する電話をかけると、「人がいないところ」と答えたので、満足だった。人がいないところなら、確実に一緒になれると思ったからだ。他の委員会が順調に決まっていき、図書委員の時にたくさんの人が手を挙げた。そして、たくさん手が挙がる中で奈月も右手を挙げた。新は予想外の奈月の行動に戸惑いながら、慌てて手を挙げた。そんな新を奈月はなぜか嬉しそうに見ていた。結局くじ引きで決めることになり、奈月は当たりくじを引いた。奈月が手を挙げたことによって次々に男子が手を挙げていき、大半が図書委員に立候補したので、新が当たる確率はさらに低くなっていた。もう一人、当たりくじを引いたのは新ではなく、クラスでも静かめな男子だった。
新は奈月の視線を感じて目線を上げ、目で奈月に訴えたが、彼女は悪びれる様子は一切なく、にやにやしていた。結局新は余った委員になり、同じになった女の子は大人しめな子だった。
放課後になり、帰ろうと立ち上がった奈月に声をかけ、一緒に下駄箱へ向かう。毎日一緒に帰る約束をしているわけではないけれど、できるだけ奈月が帰る前に呼び止め、一緒に帰ろうと誘っている。
「何で図書委員にしたの?」
「何でそんなこと聞くの?」
奈月は冷静で、新のことは考えていないみたいな口ぶりだ。
「え、いやだって人がいないところにするって、昨日…」
昨日電話で言ったことを言うが、奈月の様子から急に自信がなくなってくる。
「気が変わったの。どうしたの?同じにしようなんて言ってないよね?」
確かに言ってはいないけれど、奈月も鈍くはないし、気づいているだろうと思っていた。
「そ、そうだけど…」
「もしかして、同じが良かった?」
「そ、そんなんじゃないし!」
彼女に顔を覗き込まれ、思わず大きな声で否定してしまう。奈月は普段優しいけれど、たまに意地悪なことを言ってくる。それが嫌なわけじゃないけれど、奈月が何を考えているのか分からなかった。悠佑のことを考えると、奈月が新を嫌わない理由は一つもない。
新は奈月のことが好きだ。奈月も新のことを好いてくれているのではないか、と思ってしまうこともある。でももし自分の気持ちを伝えて、拒絶され離れていってしまったら、考えただけで堪えられなかった。
図書委員の当番がやってきた奈月を新は教室で待っていた。一緒に帰りたいと素直に伝えると、奈月は満足そうに「いい子で待っててね。」と言った。まるで犬みたいな扱いだ。教室にはあっという間に人がいなくなり、外では部活の掛け声が聞こえてくる。新はぼーっと外の景色を眺めながら、時間が過ぎるのを待った。
いつの間にか眠ってしまっていて、気が付くと外が暗くなっていた。重い瞼をこすりながら、身体を起き上がらせると、すぐ近くから「きゃっ」という声が聞こえてきた。新の机の前でしゃがんでいた女の子が後ろにしりもちをついた。同じ委員会になった佐藤さんだ。
「ご、ごめんなさい!部活帰りに教室に忘れ物取りに来たんだけど、夏目くんが寝てたから、起こそうか迷ってて…。変なことしようとしてたわけじゃなく!」
佐藤さんは焦りながら、言い訳をした。顔は真っ赤になっている。こんなに話す彼女を見るのは初めてかもしれない。初めての委員会の時も怖がらせないようにあまり話しかけなかった。
「ああ、寝過ごしたわけじゃないから大丈夫」
そう答えると、佐藤さんはほっとしたようだった。
「そ、そっか。早とちりだったね、ごめんなさい」
話が終わったと思ったが、佐藤さんはその場から動かなかった。
「?」
首を傾げた新に気づいた佐藤さんが、またまた焦ったように話し始めた。
「あ、えっと、夏目くんに聞きたいことがあって…」
「何?」
「あの、えっとね…」
佐藤さんが恥ずかしそうにもじもじしている。新は自分だけ座っているままなのもどうかと思い、佐藤さんに隣に座るように促した。佐藤さんは促されたとおりに席に座る。
「なっ夏目くんと椎名さんって付き合ってるの⁉」
突然大きな声で佐藤さんが言った。
「あ、いや、二人って仲がいいでしょ?椎名さんっていつも堂々としててかっこよくて憧れてるんだけど、中々話せなくて…」
「…うん、分かる」
新がうなずくと、佐藤さんは嬉しそうに顔を輝かせた。
「だよね!でも夏目くんといるときはいつもよりちょっとだけ表情が穏やかに見えて…。だから二人は特別な関係なのかなって」
初めて知った。周りから見たら、新といる奈月はそんな風に見られているのか。純粋に嬉しく思う。
「付き合っては、ない」
「え…そ、そうなんだ。ごめんね、また早とちりしちゃた」
佐藤さんが顔を真っ赤にして笑う。新の中で彼女の印象が少し変わった。それに、新を怖がっている様子もない。
「まあ、俺は好きなんだけど……」
なぜかそんなことを口走っていた。すると、佐藤さんはまた嬉しそうな顔をして、早口に話し出した。ここからは佐藤さんの質問攻めになり、新は圧倒されながらも答えられる範囲で答えた。誰かとこんな話をするのは初めてで、結構楽しい。佐藤さんも奈月の良さをあれやこれやと語っていて、気が合うかもしれないと思った。
二人で雑談をしていて、足音に気づかず、いつの間にか奈月と、同じく図書委員の中田くんが教室に来ていた。奈月は新と佐藤さんを見て、表情を歪めた。怒っているようだった。新は佐藤さんが無断で奈月の席に座っていることを怒っているのだと思い、立ち上がって奈月に詫びた佐藤さんを庇って訳を話した。しかし、奈月の顔はさらに不機嫌になるばかりで、新はどうしたらいいか分からなかった。
奈月は新が抱えもっていた自分の荷物を奪い取り、中田くんを連れて、教室を出た。奈月の名前を叫んだが、彼女はそれを無視して走り出した。新は佐藤さんに一言謝罪をして、教室を飛び出した。
下駄箱に着いても、逃げるように靴を履き替えて、中田くんに挨拶をして飛び出していく奈月を追いかける。奈月がなぜそんなに怒っているのか、新は分からなかった。それでも、このまま放っておくこともできずに、逃げる奈月の手をすぐに掴んだ。
「奈月ちゃん…」
奈月は振り返らない。
「怒ってる、の?」
何も話さない奈月に、新は続けて言葉をかける。
「佐藤さんが席に座ってたこと?あれは俺のせいだよ!ごめん…」
とりあえず思いつく奈月の怒っていそうなことを口にしてみる。すると、奈月は開き直ったように新に当たり始めた。
「いつの間にあんなに仲良くなったんだね?いいじゃん、佐藤さんいい子そうだし、付き合えば?」
奈月が何を言っているのか分からない。何でいきなりそんな話になるのか。
「え……?何で、そんなこと言うの?付き合わないよ」
「じゃあ何で楽しそうに話してんの?私より佐藤さんといたほうが楽しそうじゃん。私も中田くんと付き合おうかな、優しそうだし」
奈月の声色は怒っていて、突き放すように言われた。新の目からは自然と涙がこぼれていた。悲しかった、自分が試されているみたいで。楽しそうに話していたのだって、話題が奈月のことだったからなのに。
「何でそんな試すようなこと、するの……?」
奈月は我に返ったようにハッとすると、新の泣き顔を見て、苦しそうに顔を歪めた。
「好き」
奈月がポツリと口にした。
「へ…?」
突然の告白に、涙でぐしゃぐしゃになった顔で新が首をかしげる。
「好き、だから。嫉妬した、だけ。ごめん……」
奈月は猛烈に恥ずかしくなったようで、目をそらした。
「お、俺も!俺も好き!」
まだ涙の乾いていない顔で新は嬉しそうに言った。信じられない気持ちだったが、夢じゃない。
「知ってる」
奈月の表情が和らいだので、新は恥ずかしそうに頭をかいた。さっきまでの怖い表情とは変わって、奈月の笑顔を見た新は安心した。
「奈月ちゃん、付き合って」
奈月を真っ直ぐに見つめた新に、
「うん」
と彼女は答えた。こうして高一の秋、奈月と新は恋人になった。
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奈月との交際は順調だった。誤解を解いた後、奈月は佐藤さんと打ち解けたようで、よく三人で一緒に行動するようになった。奈月は新に対して意地悪を言うことも多いけれど、愛されている自覚が出てからは、それさえも愛おしいと、嬉しいと思うようになった。というか元々奈月から意地悪されることは嫌いではなかった。そんなことは恥ずかしくて言えないけれど。
奈月が悠佑の話をすることはなかった。彼女の、自分からは深く踏み込まないところが好きだが、奈月といるとどんどん自分の中で罪悪感が芽生えてきて、いっそのこと全部知ってほしいと、思うようになった。
そして、高校三年生になったある時、奈月に自分の過去を全て打ち明けた。新はなぜか彼女が受け入れてくれる自信があった。
「それを話して、私になんて言って欲しいの?」
奈月の反応は何とも言えないものだった。顔は俯いていてよく見えない。
「夏目くんはさ、過去のことを話して自分が楽になりたいだけだよね?夏目くんが悠佑くんをいじめた事実は変わらない」
「………うん、そうだよね」
正論を言われて頷くしかなかった。奈月の、思ったことははっきりいう性格も好きだ。
「でも、どんなに頑張っても過去は変わらないけど、これからは変えられる。綺麗ごとかもしれないけど、私は今の夏目くんのことを信じてるよ」
「……」
新のフォローというより、奈月の本心を言ってくれているようで嬉しかった。
「それで?これからどうするの?」
「………謝りたい」
「…」
「これこそ本当に自己満足だ。俺が楽になりたいだけ。悠佑の過去は消えない。でも、それでも謝りたい」
「…分かった。でもその時は私も一緒に行く」
奈月はそう言ってくれたけれど、新はそれじゃダメな気がした。奈月がいなくても、過去の自分と、悠佑と、立ち向かえる自分になりたいと思っていた。
二学期の始業式、新は悠佑の高校へ向かっていた。奈月から聞いていた悠佑の高校は家からかなり遠くて、今から行って帰る時間に間に合うかどうかと言ったところだ。奈月には「行ってくる」とだけ連絡し、スマホの電源を切った。
目的地の駅に向かって、電車に揺られていると、高校生二人が騒いでいるのが聞こえてきた。周りも迷惑そうにしている。
「あれ、夏目?」
「え、マジ夏目じゃん、久しぶり~」
(最悪だ)
一番会いたくなかった二人に会ってしまった。当時の友人で悠佑をいじめていた張本人たちだ。
「どこ行くん?」
一人が新の肩を抱き、話しかける。新が黙っていても、二人は他の場所に移動することなく、そのまま話している。新は嫌な予感がした。その予感は的中し、新の降りる駅で二人も降りた。
「あの、学校は…?」
仕方なく、二人に話しかける。
「元々サボるつもりだったからダイジョーブ!始業式とか行く意味ねーし(笑)」
二人は相変わらずだと思った。同じ高校にならなくてよかったとも思った。新は二人を恐れて、強く言うこともできずに、小さい声で言った。
「これから、用事あるからここで」
そう言って立ち去ろうとした新の腕を一人が掴む。
「俺らも連れてってよ」
「いい加減どこ行くか教えろよ~」
これはもう何を言ってもダメなやつだと察した。
「…悠佑の、高校」
「は?悠佑?」
「あ、マジで?面白そうじゃん、早くいこーぜ」
(やはり、こうなってしまった)
奈月はもしやこうなることを想定して、自分も一緒に行くと提案したのだろうか。新は自分の考えの浅はかさに、いまだに自分の意見もはっきり言えない性格に嫌気がさした。
結局、三人で悠佑の高校に来てしまった。奈月に聞いていた通りに、悠佑の教室に向かう。引き返したい気持ちと、逆らえない気持ちが交錯する。違う制服の生徒を、通り過ぎる人たちがまじまじと見ているので、居心地が悪い。どうやら始業式は終わっていて、帰宅時間になっているようだった。教室の扉を開く前、新は必死に祈っていた。
(どうか、悠佑がもう帰っていますように)
そんな期待はすぐに消えた。扉を開けて、一番に悠佑の姿を見た。悠佑は友達に囲まれ、楽しそうに話している。しかし新に気づいた悠佑は過呼吸のような状態になり、新と目が合うと、おびえたような顔をしていた。悠佑の前に悠佑の友達が守るように立っている。それを見て新はあの日の気持ちが蘇ってきた。
(どうして、どうしていつも悠佑の周りには人がいて、俺には味方がいないんだ)
悠佑の周りに人が集まるのは当然のことで、新もそれは分かっているはずなのに、悔しくて仕方なかった。どこかでずっと悠佑のことを見下していたのかもしれない。そんな自分が嫌になる。新も両隣にいる人たちとそう大差はないのだ。二人が何か言っているが、新は何も考えられなかった。それでも両隣に促されて、
「久しぶり」
初めて口を開く。新が真っ直ぐに悠佑を見つめると、悠佑は無意識に一歩後ろに後ずさる。
廊下で歩いている人達も、何事かとじろじろ悠佑のクラスを見ながら去っていく。
「夏目?」
名前を呼ばれた新が振り向くと、そこには懐かしい顔があった。樹だ。新を見る樹の顔は怒りで満ちている。
「樹…」
新が驚いた顔でつぶやく。
「おいおい、マジかよ(笑)。樹もいんの?」
「じゃあ何?樹と悠佑マジで付き合い始めたとか?(笑)」
相変わらず両端の男子たちは盛り上がっている。
「はあ、だったらなんだよ」
樹は冷静に答えていたが、声は怒りで震えている。樹がここにいるのには驚いたが、質問の答えにはさほど驚かなかった。どこかで二人が特別な関係であることは分かっていた。
「てか、夏目、何か言えよ」
樹が新の胸ぐらをつかんだ。さっきから話さない新をにらみつける。新は樹の様子にすごみそうになる。今すぐ帰りたい。
「ちょっと待った」
悠佑の前に立っていた男がいつの間にか移動して、樹の腕をつかんだ。
「翼、止めんな」
樹が翼と呼んだ男を睨みつける。
「樹が殴るなら、俺も殴りたいんだけど♪」
そんな樹とは対照的に、翼はにっこり笑うと握りこぶしを作った。てっきり、樹と新の仲裁に入ると思っていたが、ノリノリで樹に便乗したのでびっくりした。
「なら俺も!」
「俺も」
翼に続いて、悠佑を囲んでいた男子たちも前に出てくる。
「何でだよ……」
新の口から言葉が漏れ出した。
「そりゃ友達を悪く言われて、黙ってられるわけないだろ」
(友達……)
迷うことなく言われたその言葉に、新はかっとなった。腹の奥がぐつぐつ煮込まれたような感情が湧き出てくる。
「気持ちわりいだろ!」
言ってすぐに後悔した。悠佑に謝りに来たはずなのに、自分はまた同じことを繰り返している。何でこんなことしか言えないんだ、あの時からちっとも変えられていない。奈月と出会って少しは変わったと思っていたが、これでは逆戻りだ。
「気持ち悪いのはあんた達でしょーが」
教室に残っていた女子の一人がそう言った。両脇の二人はぴりついていたが、新は本当にその通りだと思った。新たちが正しかったことなんて今までに一つもないのだ。
「先生、こっちです!」
廊下の向こうから大きな声が聞こえてきた。新の両脇の男子たちは舌打ちしながら、すぐに退散していった。新は悠佑の顔を一瞬見たが、すぐに教室を離れた。この状況で謝ることなんて、とてもできなかった。
その後自分がどうやって帰ったのか覚えていない。二人が何を話していたのかも、頭に入ってこなかった。自分の部屋に着いても何もする気が起きず、いつの間にか眠ってしまっていた。
次の日、目覚めは最悪だった。理由は分かっているし、原因は自分にある。嫌々ながら準備をして、重い足取りで家を出る。継母にまた何か言われた気がするけれど、全く聞く気が持てなかった。
広い庭を通り過ぎ、門に向かって歩いていると誰かが門の前で待っているのが見えた。奈月だ。新は彼女に会えて嬉しくなったけれど、昨日のことを思い出すとどんな顔をすればいいのか分からなかった。
「夏目くんっ!」
新に気づいた奈月が門越しに叫ぶ。門から出ると、奈月は勢いよく新に抱きついた。
「連絡しても既読つかないし、電話しても出ないし心配で……」
そういえば、奈月に連絡してから電源を切った後、一度も確認していないことを思い出す。
「ごめん…」
謝ることしかできなかった。新の顔を見て、奈月は何かを察したみたいだ。彼女に手を引かれて学校に向かい、授業をうけたが、中身は入ってこなかった。放課後、奈月に連れられて、マンションに着いた。いつも奈月を送り届けているマンションだ。
「奈月ちゃん、ここ…」
奈月は何も言わずに、ぐんぐん中に入っていく。二人で落ち着いて話せる場所に連れてきてくれたのだろう。奈月の家に行くのは付き合ってから初めてだったが、こんな形で来ることになるなんて思ってもなかった。でもこんな形にしたのは自分だ。
奈月の家には誰もいなかった。奈月は新の手を握ったまますぐに部屋に向かった。奈月の部屋はとてもシンプルで整頓されていた。とても彼女らしい部屋だと思った。こんな状況でも恋人の部屋に二人きりはドキドキしてしまう。
奈月に促され床に座り、奈月もすぐ隣に座った。奈月は黙ったまま新を見つめている。奈月の視線にいたたまれなくなって、昨日のことをぽつりぽつりと話した。すべて話し終えると、奈月はものすごく長くため息をついた。彼女は頭を抱え、呆れた声を出す。
「ほんと馬鹿!私が一緒に行くって言ったよね?」
「うん…」
「夏目くんから連絡来た時、嫌な予感してもしかしてって思ったけどまさか…」
「うん…」
頷くことしかできない。
「それでも信じてたよ、夏目くんのこと」
「…うん、ごめん」
「謝る相手は私じゃないでしょ」
「うん…」
「………夏目くん、今でも自分には味方がいないって思ってるの?」
「…」
「私は、夏目くんの味方になれてない…?」
「っ⁉」
奈月の声は震えていて、今にも泣いてしまいそうだ。本当に馬鹿だ。悠佑に謝れずにひどいことを言って、好きな人を悲しませて、何が変われたかもだよ。
その後二人で話したけれど、具体的なことは決められなかった。
それから数日後、奈月から悠佑・樹と再会したと、報告を受けた。そして悠佑が新と会ってくれるという話も。




