夏の夢 5
聖都アジュリアは五王国の中心、つまりは大陸の中心に位置する都市だ。
正教会の総本山であり、聖都周辺は五王国の不干渉地帯でもある。
霊峰を麓から仰ぐ古都であり、千年前の魔導文明時代の設備が一部ではまだ稼働していると言う。
わたしとソフィは、夏至の前日に聖都にたどり着いた。
実際にはもう少し早く着けたのだけど、聖都の手前あたりで観光しながら時間を潰していたのだ。
わたしは、聖都には初めて訪れる。
ソフィのような王侯貴族や一部の裕福なものは成人の儀などで訪れることもあるようだけど、そうでなければ生まれたところから出ないことも珍しくはない。
わたしもローレタリアの王都を出たのは、魔王領と今の家への旅くらいだ。
五王国から伸びる街道は聖都の前で集約して、聖都を囲む城壁に向かっている。
交易の要衝でもある聖都は、巡礼者や交易商人が引も切らさずに城門を出入りしていた。
城門の外まで列は続いているけど、流れは滞っていないので、日を跨いで待たされることはないでしょう。
馬を降りたわたしたちが列に並ぶと、若い女の二人旅が珍しいのか、奇異な目を向けられる。
わたしはまだしも、ソフィはどう見ても庶民には見えないので、余計に目立っていた。
列の流れに任せてしばらく進んでいると、城門の方が騒がしくなり、やがて騎乗した一団がこちらに駆けてきた。
十騎ほどの騎士が、わたしたちの前で馬をとめる。
鎧こそ身につけていないけど、帯びた長剣と上衣に刺繍された精霊紋で正教会の騎士だと分かる。
騎士たちが馬を降りると、わたしたちの周りから人が散った。
隊長らしき騎士が、一瞬、わたしに跪きそうな動きを見せて止まる。
「ご案内するように言い付かっております」
名を呼ぶわけにもいかないからか、端的に言ってくる。
案内に聖都の騎士を使うとは、さすがにティティス。最も古い魔女とは、最も古い聖女でもあるということなのでしょう。
「こちらへどうぞ」
騎士が手を差し出してくる。
自分の馬に乗せようと言うのだろうか。
ソフィ以外の人間と体を密着させる。それを想像した瞬間、吐き気がするほどの嫌悪感が湧き上がった。
思わずわたしは一歩引いて、ソフィの腕に抱きつく。
知らなかった。今のわたしは、こうなんだ。
他人に体を触られることなんて、どうでもよかったのに。今はもう、ソフィ以外の人にこの体を絶対に触らせたくない。
倫理感や、貞操観念ではない。ソフィに悪いからでもない。わたしが、いやなんだ。ソフィにだけ触ってほしいから、ソフィ以外には触られたくない。
「騎士様。彼女は私が乗せますので、先導してください」
「いえ、しかし…」
ソフィの言葉に反論しかけて、騎士がたじろぐように半歩引く。
ちらりと横を見ると、ソフィが凍り付くような冷たい微笑みを浮かべていた。
戦いのときの真剣な顔とも、王女としての気品のある顔とも違う。あまり見たことのない顔だ。
なんの感情なのだろうと考える。
思い出すのは、旅に出る前に村で言われたこと。
ソフィもわたしが他人に触れられるのが嫌だと言っていた。
これ、怒っている、と言うか威嚇しているのかな。
そんなことを考えている間に、ソフィに馬の上に押し上げられた。
すぐにソフィも乗ってきて、後ろから抱き締めるように抱えられる。旅の間は、その方が安定するからとわたしが後ろから抱きついていたのに。
わたしたちがさっさと馬に乗ってしまったので、仕方なしに騎士たちも馬上に戻る。
速歩で進む騎士たちの後ろを、ソフィはのんびりとついていく。
騎士たちはおそらくわたしたちの二人乗りを不安に思ったのでしょうが、ソフィは二人乗りでも駈歩させることができる。
そんなことはおくびにも出さず、ソフィは付かず離れずで馬を進めていた。
騎士たちは城門とは別の小さな門から、騎乗したまま都市に入っていく。
おそらくは軍用の通用門なのでしょう。
舗装されていない道を、いくつもの門を抜けながら遠くに見えた大きな神殿に少しずつ近づいていく。
ローレタリアの本神殿すら比較にならない大きさだけど、あれが総本山ではない。
総本山とはその名の通り、霊峰そのものなのだから。
神殿の勝手口の前で騎士たちにならって馬を降りる。
「ここからは別のものが案内しますので、馬をお預かりします」
騎士の言葉にソフィが手綱を預けて、わたしたちは勝手口をくぐった。
裏方用の勝手口ですらないのか、人の気配はなく、仄暗い通路に立っていたのは一人だけだった。
顔見知りの人であったけど、質素な修道服に違和感を覚える。
「猊下、お久しぶりです」
「一別以来ですね。元気にしていましたか」
「はい、猊下は少し瘦せましたか」
「はは。猊下はやめてください。すでに総主教の座は退いておりますので、ジョバンとお呼びください」
穏やかだけど、どこか疲れたような表情はそのためだろうか。
もともと年齢よりも老けて見える人だったけど、いまは老人そのものに見える。
その人の視線がわたしの横に移り、小さく会釈する。
だけど、ソフィは何も言わなかった。
横を見ると、ソフィは前を向いたまま何も見ていなかった。ことさらに目を逸らすわけでもなく、ただ誰もいないかのように前を向いている。
「ソフィ?」
「なぁに」
わたしの声には普通に答えるし、いつもの優しい顔だ。
どうしたんだろう。ソフィは猊下を尊敬していたはずなのに。
「猊下と何かあったのですか」
「何も」
何もないわけないのに。
ティティスのことと言い、わたしには何も教えてくれない。
それを不満に思う。ソフィの気持ちがわたしに向いていればそれでいいと思っていたはずなのに、ソフィと他人の関わり合いが気になってしまう。
「でも…」
「いいのですよ、テレサ様。参りましょう」
ソフィに言い募ろうとしたわたしを、猊下はやんわりと窘めて歩き始める。
それについていきながら、ソフィの様子を窺う。
猊下に対してことさらに強い敵意があるわけではないようだけど、何かわだかまるものもあるように見える。
何か言いたいけど言えない、そんなわたしがいまソフィに抱いている気持ちに近いものなのだろうか。
「テレサ様。殿下のことは何とお呼びすればよろしいでしょう」
猊下がそれを聞いてきたのは、通路をしばらく歩いた後だった。
本人の前でわたしにそれを聞くのは、本人に聞いても答えがないと分かっていると言うことなのだろうか。
「ソフィは…いまはソフィア、と名乗っています」
勝手に教えて怒るかな、と思ったけど、ソフィは気にした様子もない。
「そうですか。ソフィア様、これは私の懺悔としてお聞き流しください」
猊下が歩きながら、ぽつりぽつりと言葉を落とす。
「私の若い頃、正教会は腐敗し、信徒をその身分や財産で差別をしておりました。私はそれが許せず、同じ志しを持つものたちと教会を出奔しました。まあ、若く、青かったのですよ」
出奔した猊下は戦場を渡り歩き、所属や身分を問わずに人を癒し続けた。その戦場の枢機卿の逸話はわたしでも知っている。
「しかし、いくら戦場で人を癒しても、元を正さねば何も変わりません。そんなことに、片足と片目を失って、ようやく気付きました」
猊下の目も足も『聖餐』の対価として失ったものだと聞いている。
寿命以外にも肉体そのものも『聖餐』の対価になり得る。
『聖餐』の対価として失ったものは、それが自然な状態になってしまうから、通常の治癒法術では治せない。
猊下は同じ『聖餐』での治療を、頑なに拒んでいると聞いたことがある。
「だからこそ、教会の改革を行いました。人を選別しなくてもいいように始めたはずのことでした」
猊下の背は、悄然として見えた。
「そのはずだったのに、ソフィア様の言葉でようやく気がついたのです。絶対にするまい、させまいと思っていた人の選別を、私自身がしていることに」
ソフィが猊下に何を言ったのか、わたしは知らない。
だけど、きっとわたしに関することなのだと言う確信に近い予感があった。
「私は教会の改革に目処が立った時点で総主教など退くべきだった。あの日、自分を傷つけたものたちを、何の感情もなく見送る少女を見たときに、一人になどするべきではなかった。その少女を、生贄になど選ぶべきではなかった。私は…あまりにも愚かだった」
わたしは、この人が憎いだろうか。
自分が傷ついたのだと言うことを、ソフィと出会ってわたしは知った。
世界から色が失われていく感覚は、きっとわたしの心が摩耗していく感覚だった。
だけど、わたしはわたしを傷つけたものたちに恨みをもてない。ソフィにあげたいから、返してほしいとは思うものはあるけど。
許したのではなく、関心がない。そもそも個人として認識できていない。
それは、この人やアレクシス王も同じだ。
個人としては認識できているけど、結局のところ欠片も興味がない。
「いつからか、地位の魔力に囚われていたのかもしれません。より多くを救う力に酔っていたのかもしれません。一人を救うことも、多くを救うことも、本質的には等価なのに」
言葉が途切れると同時に、歩みも止まった。
通路の行き止まりには、一枚の扉。鍵が外されて、開いた扉の向こうは光を一切通さない真の闇だった。
「現存する数少ない転移門です。霊峰にあるティティス様の住むしじまの塔に繋がっています」
そう言って、猊下は通路の端に避けて道を開ける。
「ご案内ありがとうございました」
軽く会釈をして通り過ぎようとすると、ソフィが動かなかった。
ソフィは真っ直ぐに転移の門を見ながら口を開く。
「私は貴方を許さない。許すべきではない。ですが、貴方が今まで救ってきた人はたしかにいるのですし、それを否定したつもりは私にはありません」
優しい声ではなかった。
でも、この言葉を言わずにいられなかったことが、ソフィの優しさであり、甘さでもあるのだろう。それが、わたしのソフィという人だった。
ソフィは黙ってわたしの手を握ると、引っ張るように門に進んだ。
門をくぐる瞬間に見えた、頭を下げる小さな老人の姿がわたしの胸に残った。




