第1話 家政婦
母さんが死んだ。末期の乳がんだった。
俺、宗田誠が高校一年の冬に母さんに癌が見つかった。しかしすでにかなり進行していて、もう手の施しようが無かったらしい。数か月後、治療の甲斐無く母さんは亡くなってしまった。
父親は俺が幼い頃に亡くなり、母さんは俺を女で一つで育ててくれた。しかし、豊かでこそなかったが、決して貧しい思いはしなかった。
高校を卒業したら就職して、早く母さんに楽をさせたかったんだが、大学には絶対行けと、そこは母さんも頑として譲らなかった。
それでも、あと数年で母さんを助けられると思っていたのに、結局俺は何もすることが出来なかった。
親戚付き合いは殆ど無かった。俺は所謂天涯孤独というやつになってしまった。近所の人たちの助けもあって、何とか葬儀を出すことは出来たが、俺の心にはぽっかりと穴が開いてしまっていた。
二、三日の間、俺は何をする気力もなく、ただボーっとするだけの時間を過ごしていた。
そんなある日、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。なんとなく時計を見ると正午少し前だった。出前や宅配便を頼んだ覚えはない。セールスか何かだろう。
俺は出る気力も無かったので、そのまま居留守を使うことにした。しかし何度も鳴らされ続けるチャイムに根負けし、俺は玄関へと向かった。
インターホンの画面を確認すると妙齢の女性が一人立っていた。見たことのない人だ。白いトレーナーにデニムのパンツ。制服を着ていない以上、少なくとも宅配便ではない。出前サービスの人が家を間違えたのだろうか?
「どちら様ですか?」
「私、オレンジ家政婦派遣センターから参りました立花と申します」
家政婦? そんなものを頼んだ覚えはない。
「家をお間違えではないですか? そんなもの頼んでいませんよ」
「こちらは宗田誠様のお宅ですよね。ご説明させていただきたいのですが」
どうやら間違いではないようだ。一瞬詐欺を疑いもしたが、正直、どうでも良いと思っていたところもあり、俺は玄関の鍵を開けた。
そこにはかなり度がキツそうな瓶底眼鏡をかけて少し大きめのカバンを持った女性が立っていた。何かのコスプレのようだ。
「ありがとうございます宗田様。改めまして、オレンジ家政婦派遣センターの立花と申します。早速ですが、こちらをご覧になっていただけますか?」
そう言って立花と名乗った目の前の女性は一枚の封筒を俺に差し出した。封筒には「誠へ」と書かれていた。見覚えのあるその字は母さんの筆跡だ。
封を切り、中の手紙を取り出し読んだ。
『誠へ
誠がこの手紙を読でいるとき、私はもうこの世にはいません。
なーんて、まさか自分がこんな文章を書くことになるとは思ってもみなかったわ』
生前の母さんを思い出させる、少しおどけた感じの文章がそこにはあった。鼻にツーンと湧き上がるものを堪え俺は続きを読んだ。
『私が死んだ後、一人残ってしまうあなたの事が気がかりなので、家政婦さんを雇うことにしました。あっ、契約とか支払いとか細かい事は既に済んでいるので安心して頂戴』
なっ、ちょっと待ってくれ、そんなこと何も聞いていない。それに支払いは済んでいるって、そんな金があるならもっと……。
(母さんだって楽が出来たろうに)
どうしてもそう考えてしまう。そうすればもっと生きられたんじゃないのか?
『勝手に決めてごめんなさいね。でもこれは息子のことを想う母心だと思って受け入れて』
俺のツッコミを読んでいるかのように文章は綴られていた。
『それと家政婦さんには住み込みでお願いしてあるから、部屋は私の部屋でも使ってもらって。もし誠が嫌だというなら別の部屋でも良いけどね』
かなり衝撃的なことが書かれていた。住み込みだって! こんな若い女性と。何を考えているんだ母さんは。
思わず手紙から顔を上げて目の前の女性を見てしまう。
女性は少し顔を傾けて、どうしました? という表情をしていた。
「あの、これには住み込みって書いてあるんですけど……」
「あっ、ハイ、そのように伺っております」
「いや、住み込みですよ、若い男と。問題でしょ!」
「ええと、それは男女の関係とかそういうことでしょうか?」
はっきりと問われ、少し戸惑ってしまった。
「え、えっと、まあ有り体に言えば、そういうことです……」
段々と尻すぼみになってしまった。
「勿論、不同意な猥褻行為等には厳重に抗議致しますし、法的手段も取らせてもらいます。失礼ですが、宗田様はそのような行為に及ぶつもりなのですか?」
「とんでもない! そんなつもりはありませんよ」
慌てて両手を振って否定の意を示す
「では問題ありませんね」
ニコッと笑いながらそう言って女性は家に上がろうとしたので、俺は慌てて女性を止めた。
「いや、そういうことではなくてですね、俺には家政婦なんて必要ありません。支払った金を返せとは言いませんからお引き取りください」
「本当に必要ありませんか?」
女性は身体を少し傾け、俺越しに後方の廊下を見る。そこにはゴミの詰まった袋やら脱いだままほっぽってある衣類やら空のペットボトルやらが散乱していた。
母の見舞いやらなにやらでここ数か月の生活サイクルは乱れ気味だった。家の中は指摘されるまでもなく酷い有様だった。ここからは見えてはいないがキッチンも中々に酷い様子なのが脳裏に浮かんだ。
「とにかく、お引き取りください」
「いえ、流石にこの状況を放置は出来ません。それにお手紙にも書かれていますし、続きをご覧になってください」
言われて俺は手紙の続きを読んだ。
『あなたのことだから、どうせお断りするだろうけど、私には家の中の惨状が目に浮かぶようだわ』
俺の性格や能力を完璧に把握しているかのように、まるで予言のようにピタリと言い当てていた。
『これは私の最後のお願いと思って頂戴。どうか彼女を受け入れてあげて』
卑怯だよ母さん。そんな風に言われたら従うしかないじゃないか。俺は手紙から顔を起こし目の前の女性に改めて向き合った。
「分かりました。家政婦の件、お願いすることにします。ええと立花さんでしたっけ?」
「はい。あっ、こちらをどうぞ」
そういって女性は一枚の名刺を差し出してきた。そこには「立花 由美」と書かれていた。
「すみません、もしよろしければ「由美」と呼んでもらえませんか。同じセンターに立花が何人かおりまして、由美と名前の方で呼ばれ慣れているものですから」
妙齢の女性を名前で呼ぶのに少し抵抗があったが、そうお願いされては仕方が無い。
「では「由美さん」ということで」
「はい。ありがとうございます。それでは宗田様、早速家の掃除から行いますね」
「よろしくお願いします。でも、宗田様ってのはやめてもらえますか。何か仰々しくて」
「分かりました。それではなんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「誠で良いですよ」
「……で、では、ま、誠さんということで」
「はい、それでは由美さん、これからよろしくお願いします」
「はい、誠さん、こちらこそよろしくお願いします」
こうして、俺と立花由美さんとの共同生活が始まった。