エピローグ:蛇崩夜崩
目が見えないと時間の感覚がつかめない。
やけに長く感じたその日の最後に現れたのは、夜崩だった。
「起きておるか、命人?」
やはり返事は出来ない。
指一本、まだ動かせない。
正直に言えば、自分はもう動けないのではないかという恐怖が付きまとう。
しかし、足の指先に至るまで感触は残っている。だから、脊髄の問題ではないと思う。
それだけが心の救いだった。
「起きておらんか」
ごと、と音がした。
サイドテーブルに、お見舞いでも置いたのだろうか。
「見舞いにはフルーツが定番だが、フルーツと戦って負傷した相手にフルーツもあるまい。真逆が良かろうと、シュールストレミングの缶詰にしておいたぞ」
何を考えているんだ。
それ世界一臭い缶詰だろ。
そんなもの病院で食えるか。
「そんなもの病院で食えるか、と起きてたら言うだろうから……本当に起きて居らんか。そうか……」
読まれていた。
「ニャハハ……寝顔は昔から変わらんな」
成長してなくて悪かったな。
「まったく、お前は暴君の所有物だというのに、次から次に女が見舞いに来ているようだな。女を侍らすのは暴君の特権だぞ馬鹿者」
理不尽な言いように、文句の一つも返したいが、声帯をぴくりとも動かせない。
「……そんなだから暴君も、暴君でいないといけないんだぞ、わかってるのか?」
どういう意味だよ。
「……はは。何をやってるんだろうな、「私」は」
ん?
今、私って言ったか?
「誰も聞いていないのなら、暴君でいる必要も無いのにね。本当に、罪のない寝顔しちゃってさ」
おかしい。
お前、そんな口調だったか?
「命人は昔っからそうだ。無自覚な女ったらしのくせに、幼女みたいな姿だからモテてると思ってるんだ」
何を言ってる。それは、事実だろう。
「バーカ」
馬鹿とはなんだ。というかいつもみたいに馬鹿者って言えよ。
「でもね、お前を絶対誰にも渡したりなんかしないよ。はは、そういう意味では、根っこもやっぱり暴君なのかもしれないけど」
さっきからずっと何を言って――
お前はほんとうにあの夜崩なのか?
混乱する頭に、触覚が特大の情報を叩きこんで来た。
それは間違いなく、唇と唇が触れ合う感触だった。
「……普段なら、恥ずかしくて言えないけどね。愛しているよ。命人」
え?
え?
ええ?
だってお前が好きなのは、女で、俺に構うのは幼女そっくりだから――
「早く目覚めておくれよ。その時はこんなに素直にはなれないだろうけど、またいつもみたいに、暴君に構っておくれ」
夜崩は去って行った。
混乱しきった頭。
流れ出る汗。
気づけば拳を握り込んでいた。
体も動くようになっている。
だけど、相変わらず、心臓の音だけがばくばくと激しく音を立てていた。
俺は、馬鹿だ。
……どれだけ先入観でものを見ていたんだろう。
今日漏れ聞こえてきたみんなの本音は、俺が思っていたみんなの姿とは、違っていた。
みんな、理想の自分であるために、普段はそれを演じているのかもしれない。
それは「強さ」だ。
理想と違う自分を誰より知っていて、それでも「そうあろうと努力し続けている」ということだ。
自分の見た目ばかり気にしている俺に、その強さはあるだろうか。
あんなに強く生きているみんなに、胸を張れる自分でいるだろうか。
この幼女のような見た目は変えられない。
きっと背だって、劇的には伸びないだろう。
いまのちやほやが、ずっと続くはずはない。
だからといって、今受けている好意をないがしろにし続けていいんだろうか。
……たぶん、違う。
みんなは、別にそれだけを見ているわけじゃない。
一番気にしていたのは、俺自身なんだ。
幼女に見られるのを嫌がるくせに、幼女に見られるのを理由に、ちゃんと相手に向き合うことから逃げていた。
自虐を盾に、好意から目を逸らし続けてきたんだ。
でも――俺は、誇れる自分になりたい。
好意を真正面から受け止められるような、そんな人間に。
「がんばら……ないとな……」
病室の外でセミが鳴いていた。
夏が始まる。
きっと二度とない、熱い夏が。
(了)




