風呂場の祟り神
気づけば、朝日がカーテンの隙間から漏れてきていて、その光で目覚めたらしかった。
時計を見ると6時にもなっていない。
登校にはまだ早いが、目覚ましよりだいぶ早起きしたらしい。
頭がぼーっとする。
寝起きだからか、酸素が頭に回り切っていないような感覚。
色々と記憶があやふやだ。
夜崩のヤツが襲撃をかけてきたような記憶があるが、部屋に誰かいたような形跡はない。ベッドの布団にも乱れが無いし……
夢だったんだろうか。
廊下の洗い場で顔を洗おうと思ったが、この時間なら大浴場が開いていたはずだ。
寮は学生の護身の観点から多人数での行動を推奨している。
だから、各部屋に浴室は無く、大浴場が存在している。日本旅館のように、利用できる時間帯が決まっていて、朝と夜に開放されている。
部活などで汚れたときなど、急な場合はシャワーなら何時でも使えるので、それで済ます生徒もいたりいなかったり。
ともかく大浴場に入ると、先客がいた。
九介である。
素っ裸で脱衣所に屹立していた。
風呂上がりにコーヒー牛乳をイッキしていたようだ。全裸のままなのが無駄に男らしいが、風呂上がりのコーヒー牛乳ほど美味いものはこの世にないから仕方ない。
学内に自販機はない――ウォーターサーバーはある――が、脱衣所にはあるというのも規則の不統一に感じるが、ここは治外法権……いや、ホスピタリティなんだろう。
なお自販機のラインナップは、牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳の3つのみ。どういう仕入れルートなのか、いまだに紙のフタのタイプなあたり相当なこだわりを感じる。
まぁいいや。俺も風呂上がりに飲もう。
「おはよう。早いな」
「よう。俺はいつも一番風呂だぜ。お前、今日は早いな」
「なんか目が覚めてね……」
言いながら寝巻を脱いでいると、ガチャンと音がした。
九介がビンを取り落していたのだ。
「何やってんだ。危ないぞ」
「そうじゃねえだろ。……どうしたんだお前。いや、何してんだお前」
「はぁ?」
幽霊でも見たかのように目を見開く九介。
「キスマークだらけじゃねぇか」
「は?」
言われて、そんなバカな、とドライヤーとか置いてるところ――正式名称は知らない――の鏡を見る。
ある。いくつもある。
口紅のそれじゃなく、吸いつきで軽く内出血したあとが。
「なにこれ……」
ドン引きである。
「あれは夢じゃなく……」
夜崩が忍び込んで来た挙句、締め落とした俺を、更に好き放題したってのか?
何考えてんだあいつ!!
だいたい、女好きのくせに、俺にだけ悪戯が過ぎるのも腹立つ!
昔からあいつは俺を男扱いしてねえんだ!!
俺は幼女じゃねえ!!
と、こっちが憤っているというのに、九介の方は完全にヒートアップしていた。
「ふざけんなてめえばっか!! 一人部屋でハッスルタイムですか?」
「い、いや知らないよ!! 朝起きてこうなってんだからもはやホラーの気分だよこっちは!!」
「くそっ、そのキスマークにキスさせろや!!」
「何言ってんだお前!!」
「間接キスだよ!! そのくらいいいだろ!!」
「いいわけねえだろ何言ってんだ!! っていうか全裸でにじり寄って来るな!!」
「うるせー! いっただきまーす!!」
モテなさの向こう側へ行った男が、ガニ股の飛び込み姿勢――いわゆるルパンダイブ――で飛びかかってくる。
こいつ、本気の目だ!!
一抹の恐怖を覚えた次の瞬間、空中の九介が制止した。
がっしりと、頭が掴まれている。
古賀先生程ではないが大柄の人影。筋肉質の古賀先生とはまた異なる、肉付きのいい体格をエプロンで締め付けている。
カーチャンこと寮長――小金丸丸子である。
「結婚でまるまると続く名前になったけど、まぁいいか」と言い切ったという女傑であり、VTT上がりは伊達ではなく50キロ弱の人間を片手で掴んで安定させている。
「絵面が犯罪だよ!」
それはそう。
「で、でも……」
「でももだってもない!! 頭冷やしといで!!」
寮長はそのまま風呂場へずいと進むと、九介を水風呂に叩きこんだ。
「サムゥア!!??」
絶叫が聞こえて来るが自業自得だ。安らかに眠れ。
「悪かったね。あんまり大声で騒ぐ声が聞こえたもんで入っちまったよ」
「い、いえ。別に見られて減るようなもんでもないから大丈夫でしょう」
「おや、その体中の跡は……」
「あ、あっ、これはイタズラされたんですよ」
「あっはっはっ。悪趣味な悪戯だねえ。最近はそういうのが流行ってるんだ」
「かも、しれないですね」
あぶねえ。あいつが犠牲になっているうちに寝巻を着るべきだった。
「それはそうと、上の子のお下がりいらないかい? 下の子はまだまだ小さいからね。あんたなら似合うと思うんだけど」
「いやあの、お子さんって女の子ですよね……?」
「いいじゃないか細かいことは」
「流石に女物は勘弁しておきます」
それに小2、3とかだったと思うから、流石にそれは着れないと思うが、着れてしまったら立ち直れないので絶対に嫌だ。
「そうかい。じゃあいいか。いじめられたりしたら言うんだよ」
「大丈夫です。九介もアレでじゃれてる範疇なんで……」
「ふーん、まぁいいやね。朝食はもう出来てるから、風呂入ったら来るんだよ」
そう言って寮長はがしがしと俺の頭を撫でた。
撫でた。
撫でた。
「いや、長くないですか」
「ごめんごめん。やっぱりアンタを見てると、娘を思い出すんだよ」
たしか、旦那さんは主夫だと言ってたな。v学は危険手当もつくから給料がいいと聞くし、そういう選択肢もあるか。
とはいえ、朝早く出て来るこの仕事は、子どもとの時間も取りづらいだろう。
よく寮長や寮母さんというと住み込みのイメージがあるが、v学ではシフト制になっている。
これは、若者が集まる都合上、v獣発生による戦闘に巻き込まれる可能性があり、家族連れでの住み込み勤務が出来ないためだ。
寮長の他、副寮長さんが二人いて仕事を分担しているが、子どもと触れ合う機会が少ないのは確かだろう。
だからって、俺を撫でられてもな……。
しかし、水風呂から海坊主のように顔を出している九介の目はうらやましげだ。
大昔だったら後世まで語り継がれる祟り神のような怨念を感じる。
寮長が出て行ったので、俺は大浴場へ。
水風呂から俺を追跡する祟り神の目の動きを無視し、ひとっ風呂浴びてコーヒー牛乳を飲んだ。いつまで水風呂入ってるんだ。それほどまでに頭が冷えないのか。
祟り神より先に上がり、予定通りコーヒー牛乳を買う。
沁み入るほど美味かった。