5. 無い希望
「もう帰ってしまわれたのかと…」
『興が乗っただけだ。ほらよ』
その声とともに投げられたのは街に降りた時に突いた覚えのある果実。
取ってきてくれたのだろうか? 私のために。
いや、気まぐれか。うん、それでも嬉しい。
まさか実際に食べられるなんて思っていなかった。この果実を食べたことがないわけではないがこうして街の人々のように丸い形のものを齧るというのをやってみたかったのだ。
「ありがとうございます」
少し袖口で擦り、齧ればクシャリ、軽快な音とともに口の中にはほどよい甘みが広がる。
食べにくさ故滴る果汁が手を伝い、それを舐めることが面白い。食べるのにはコツがいるのか、といっても汚れは精霊にでも頼めばおちるのだけど。
ニコニコしながらペロリと平らげると、御狐様が近くまで来ていたことに気づいた。足元まで来ていた彼と目が合い、何か?というように首を傾げると私の膝の上に飛び乗って来た。
『赤い髪など珍しい』
私の肩にかかる髪は確かに赤い。この国の王族ではそう珍しい色でもないが確かにこの色を持つ人間は少ないと思う。
聖獣の認識もそれと同じらしく、御狐様は前足で私の髪を少し撫でた。けれど、残念ながら、
『しかし、お前には合わないな』
見透かしたようにそう言うから気づいているらしい。私は生まれた時この色を持って産まれなかった。でも贄となるには炎神の色である赤に染める必要があった。目は元々赤いから良かったけれど。
『こんなに縛られつまらなくないのか』
わけがわからないとでも言うような声はやはりよく頭に響く。でも、心地よい声だ。低く、耳に馴染む落ち着く声。やっぱり聖獣ともなれば声まで美しくのかもしれない。
「退屈ではあります。でも、それももう少しで終わりますから。せめて来世ではこうならないことを祈るだけです」
『来世……?』
「?」
『来世、そうか、来世、ははは! 来世か!』
何がおかしいのかケラケラと笑いだした御狐様。明らかに馬鹿にしているその笑いは多少のイラつきを伴うが、それを上回るのが疑問。嫌な感じだ。だけど、どうしてそんなにも面白いのか。
『お前がその身に甘んじている理由がよくわかった。人間はやはり愚かだな。無い希望に縋って受け入れるなど愚か以外の何者でも無い』
「無い希望、なんて。来世はわからないものです。そこに希望を見るのが愚かだと?」
『いいや、違う。それは来世があればの話だ。お前にその来世はないだろう。何しろ、お前はこの国の贄なのだから』
「そ、れは命を捨てる代わりに霊力を捧げるだけの儀式です。来世なんて関係ない」
『霊力捧げる? ああ、そういうことになっているのか。馬鹿にもほどがあるぞ。仮にも大国の神であればお前の霊力など精々先の果実一切れほどのもの。そんなものを欲するわけがない』
じゃあ、私はなんのために身を捧げるのだ。
高い霊力を魅入られ霊力を捧げる。潜在能力の高い霊力者は霊力が体からなくなれば死に至るのだから霊力を捧げればつまり死ぬことになる。
そのために生まれた時から9つまで霊力を最大限高められ、神に印をつけられてからそれを完成させるため禊を行う。そうして印となる花が開いた時、この国の果てにある大瀑布へ身を投げ……。
「霊力を抜かれて死ぬのなら、身を投げる必要は、何?」
霊力だけを欲するなら身を投げる必要はない。神とは禊の時に会っている。花がひらけば頃合いとばかりにその時あの禊の場で霊力を抜かれればそれでいいじゃないか。
「どういう、ことですか」
『さて。そこまで教える義理もないな』
獣のくせに、意地悪に笑う表情がよくわかる。
愕然として動揺したが、そんな顔をされるほどこの話は私にとってそれほど価値のある話でもない、はずだ。
「もうじき罰の時間ですので御狐様はおかえりになってください。」
『……あ?』
「お帰りに、なってください」
『ふんっ』
気配が消えた。
来世に望みはあったけれど、わたしがそこまで考える必要などない。 神様も、国も、民も、望んでいるのはわたしの力だ。わたきはそれを与えるだけ。そのために、生まれた。
それに、わたしは死ぬことなんて怖くない。わたしの望みを叶えられるのなら、いや、叶えるために贄となるのだから。
震える体を落ち着けて、御狐様の消えたその場所を見つめて思う。外の世界を知りすぎるのもよくないことなのかもしれない、と。
わたしはきっと欲深い。 知ってしまったら欲しくなってしまう。 どうしようもないことならば諦めもつくだろうけど、わたしには知る術もあれば、己の欲望を満たす力もあるのだから。それにしても、
“無い希望”
その言葉は、嫌に私の心臓を波打たせた。奴が言ったのはわたしが来世を望むようなことを言ったから。 だからその希望という言葉は来世に掛かっている。だから、私の望みには関係ない。 でも、そう正面から言われると、
「……っ、ひっ! っぁあっ!!!」
突然訪れた痛みに思わず上がった悲鳴。いつも予兆を感じてから身構えていたから、考え事をしていた今、身構えることを忘れていきなり体の感覚が麻痺した。
先の見えない恐怖への震えなんかじゃない、痛みで体の感覚が麻痺し、痙攣する震え。
痛みで何も考えず、ただ気絶もできない痛みに震える。それがこの半月私を苦しめていたはずだ。現に今だって苦しいし、いたい。
でもその痛みが私の思考を止めてくれる今だけは、受け入れられた。