16. 姜翹煉
その女の話は一度だけ、陛下から聞いたことがあったが見たのは初めてだった。
陛下の言った通り王族の色は持たず、真白の髪は異国で見た雪を思わせ、俺たちとは違う赤い瞳はぼんやりとした色で明らかに異質だった。
陛下はその女の母親にご執心だったらしく、忌子を生んで間も無く亡くなった事から、すぐにその娘を贄姫に決めたという。
俺の母親は皇后ではあったが、忌子の母親より愛されず、彼女の死と贄姫の決定に手を叩いて喜んでいた。幼いながらに覚えている。
陛下を筆頭に、王家の誰もが異質な彼女を疎み、蔑み、忌避した。忌子として生まれた宿命だろうと可哀想に思うことはあったがそれだけだった。
年月を経て、二度目に見た彼女は瞳の色はそのままでも髪を染め、器として御誂え向きに仕立て上げられていた。
美しい顔をしていたが、表情の機微は薄くつまらない女だと初めは思った。
手紙を渡され珍しさに惹かれて顔を合わせたが人形のようだと思い、しかしそれは違うとすぐに分かった。
自身の置かれた身の上に文句の百や二百、出るのは当たり前だと思っていたし、逃げ出す相談でもされるかという予想をしていたらそれを見事に裏切って真名ときた。しかも、それをただ呼んでほしい、と。
これを笑わずにいられるだろうか。
そんなことだけで生贄などというふざけた慣習を受け入れる女がいるなどとは思っても見なかった。
俺はたしかに神を見たことはあったがあの神にこの国の行く末を委ねる気など毛頭なかったし、この贄姫が逃げるのであればそれも一興だと思った。
だが、予想に反して今代の贄姫は逃げるなどとは微塵も言わず、俺にも期待しなかった。
俺が彼女の真名を知らないと言っても全く落ち込む様子もなく至極当然に頷いてみせたのだ、ここまで欲のない人間も珍しいし、面白いと思った。
忌子で、人から疎まれ、人から外れ、人としての欲も捨てた女。
それも、万に1つもありえないであろう希望に縋り死ぬために生きたのだ。あの陛下が贄に親心を見せるなど決してないだろうに。本当に、面白いくらい哀れであろう。
陛下に進言すれば渋々頷き、二人に会話の場を設けたがそれはもちろんうまくはいかなかったし、結果、贄姫は逃げた。
あれだけ陛下に閉じ込められ搾取された環境でそれなりに術を使って逃げおおせたのは素直に感嘆したがまさか、あんなことになるとは実に期待を裏切られた。
俺は魔力がからっきしなため、連れてきていた援護役の兵士曰く、贄姫の霊力の回路は壊れた水瓶のようなもので、あれで術を使って逃げているのがとんでもなくおかしいらしい。「化け物」と呟くほどには。
追い討ちは、追い詰めたと思った国境を結ぶ橋の上だ。
激しい雨の中、吹き荒れる風に煽られる橋の中腹で落ち掛けた彼女は数秒持ちこたえたが耐えられず落ち掛けた。
そう、落ちてはいない。
なぜなら助けられたから。他でもない、神に。
霊力のない俺でも感じ取れるほど空気を震わせる迫力をもったソレは銀色の長髪を揺らし片手には薙刀をもった美丈夫であった。
急に現れて贄姫を抱えると俺たちの方を一瞥 ーー睨み付けると、あっという間にその場から消え去ったが直後、今度は俺たちの背後、即ち先ほどまでいた儀式の間から爆音が轟いた。
「贄姫はいい! 戻れ!」
「「「はっ!」」」
結構な距離をここまで走ってきたため、もしもの時のことは考えつつ戻ると、陛下は無事でほっと息をつく。ただ、そこにはあるはずのものがなくなっており、陛下はそれを見て呆然としていた。
「お終いだ…この国は……お終いだ……」
そんな言葉を繰り返す陛下の先にはただただ森が広がっており、そこにあったはずの神の御前が消え去っていた。代わりにあるのは大きく抉られたような一本の刃の跡だけだ。
頭をよぎったのは贄姫を抱えて消えたあの男だが、考えたところで今はどうしようもない。それよりも、
「怪我人はいないのか、何が起きた」
「はっ。 一瞬のことでしたが、何者かの襲撃を受け大瀑布が消え、それと同時に先程から国を守る結界が消えつつあるようです」
「結界、か」
「……申し上げにくいのですが、炎神様に何かあったかと」
「うむ、それはーー」
ーーー都合が良い。
俺は霊力を持たない。
神という存在がいることは知っていても、それに頼りきりな国政、そして神を中心として組まれる慣習に常々遺憾の意があった。
人間の営みを気まぐれな神なんぞに任せられはしない。少なくとも、俺が治める国は。
多少時期が早まったが神がどうにかなったというのであればそれは好都合だ。
国の混乱は避けられまいが、それを立て直せばこの国は以前よりも盤石なものとなる。その為の布石は既にいくつも打ってきたのだから。
「城に伝令を出せ。 まずは陛下の安全を確保し、俺たちも一度城へ戻るぞ。 それと、術を使える兵士は例の結界を作動させる用意を」
「逃げた贄はどう致しましょうか」
「捨て置け。 アレは既に死んだものとせよ」
「はっ!!」
神などいなくても、人間は生きていける。 そもそも霊力など持たない人間の方が多いのだから。俺はそのためにこの日まで諸国を巡り、さまざまな為政を学んできた。
であればその起点となってくれた彼女には、少しは感謝しないとな。