12. くちづけ
「ーー暁槻」
「……嘘をつくな」
「ふふ。 嘘ではない。 贄姫としての名前だからな。 ……わたしは自分の名前を知らない。 真名は、神に捧げたから知っているのはきっと陛下だけ」
「……ふん。 では娘、お前が俺に名をつけてみろ」
「……は? なぜ急に」
「無いと言われると腹が立つ。 気に入ったら受け入れてやるから名前をつけてみろ」
「はぁ? なんで私が…しかも気に入ったらって……。 というか人外に名前をつけるとややこしいことになるでしょう」
「ならん。 お前と俺では格が違いすぎて俺に意思がなければ契約など結ばれん」
言い方腹立つけど恐らく事実だ。
「じゃあ……んん…」
名前、名前か。 その人(人では無いが)を象徴するものだからな。赤子であればどういう風に育って欲しいかとかで決めるけど、今回は見た目とあとは……
「1つ聞いても?」
「なんだ」
「桜、好きなのか?」
「まぁな」
満更でもなさそうだ。じゃあ、決めた。
「ーー櫻月」
「……安直だな」
「……気に入らなかったらいつか別の方に頼んでください」
「気に入らないとは言っていない。 悪くはない」
面倒くさい狐だな。
「これで少しはあなたのこと呼びやすくなりますね、櫻月。 まあ、あと数日の付き合いでしょうけど」
「お前の決意は変わらない、か」
「はい。 わたしは、贄姫として生まれた責任を全うします。 それがわたしの存在意義だから」
「結局最後までお前の選択はつまらないままだ。 人間のくせに大した欲もなく運命に抗う気力もない」
「……」
普段ならばこんな憎まれ口を叩いてくる狐に文句の十や百いってやらなきゃ気が済まないというのに、こんな美しい桜を前にしてはそんな気も失せるというもの。
不思議と私の心は凪いでいて、狐の言葉にもそう苛立つことはなかった。
そして、どこか虚ろな目で狐を見つめるわたしに狐は眉をしかめた。
「なんだ」
「一度おろしてください」
「あ?」
「なんですか? 裸足でも平気ですから、ね?」
否、と大きく顔に書いてありそうな感じだが、一応降ろしてくれた。
ふわりと意外にも優しく地表に降ろされ、白一色の地面にそっと足をつけるとツキンとさすような冷たさが足裏を侵食した。
「冷たい。雪とはこんなに冷たかったか……」
痛みなど忘れてその冷たさを身に刻むように噛みしめる。そうしてわたしは、まるで禊のように心を落ち着けた。無駄な心をそぎ落とし、ただ、わたしという意味を残すための決意を固めた。
十分楽しんで、ふと狐を見上げると月をバックに雪上に静かに佇む姿はたしかに月の精霊のように美しく、彼に向かい合う桜の大木に負けない程だ。思わず、
「櫻月……」
とその名を呼ぶほどに。
「なんだ」
「あ、いえ。 その、素敵な場所に連れて来ていただき感謝します。 この冷たさと美しさはきっと死んでも忘れません」
「……」
「?」
感謝の言葉に対し、無言でじっと見つめてくるというのはどういう感情なのか。
疑問に首を傾げたのもつかの間、一気に距離を詰められ抱えられた。そのままジッと顔を見つめられる。
十秒ほどだっただろうか、彼の顔がそのまま大きくなり、つまり近づいて来て、
「ん……!?!?!?」
ガブリ、と唇を食まれた。
私が今まで書物を読んでいた接吻というものとは随分違ったため、この行為は一体なんなのかと頭の中の書庫を漁るも該当するものはない。
ただ、唇と唇が触れている以上そういうことなのでは?と私の中で結論が出る頃には、口内に私のものではない異物が侵入していた。
これは、接吻なのだろうか……いやそうだとしてもなぜこの狐、男、いや、狐は私にこの行為をするのか。
「はぅ……んん、んー!!!!」
だだっ広い森の中では生々しい音がいやでも耳に残り、本能的にこれが卑猥で、淫靡な行為だと脳内で警鐘が鳴っている。まずい、このままだと、よくわからないが、良くはない。止めないといけない。
ガブッと、なんとか噛みつき、そこでやっとその行為が終わった。
「はぁ、はぁ、はぁ、……ん、はぁ」
「チッ」
霞む視界の向こう、狐の口の端からはツウと赤いものが滴った。それは私も同じだ。同時に自分自身の舌も噛んでしまい、痛いやら怖いやらで混乱してわけがわからない。
「なん、れ、こんにゃ……」
呂律も回らないし、酸欠から頭もぼうっとしている。やっと空気が吸えて少しずつ覚醒はしているけども。
「強情な女を陥落させるならこれが一番だろう」
「な……」
一瞬、何を言われているかわからなかったが、その意味を理解して頭に血が上った。
「お前は! わたしを侮辱しているのか!! わたしがこんな行為で堕とされるような人間だと!そんな甘い覚悟で生きていると思っているのか!!」
怒りをあらわにする私が珍しいのか、狐は片眉をあげて目を眇めた。
「たとえ一時の夢だろうと、こんなことで、こんなことでわたしの決意は揺るがないし、お前なんかに、お前なんかに心が動かされてたまるか! わたしは、わたしのために贄になると決めたんだ!それを、突然現れたお前なんかに! ふざけるのも大概にしろ! 獣の気まぐれでわたしがわたしでなくなるなど絶対にない! お前なんかにわたしは変えられない! もうわたしに関わるな!消えてしまえ!」
怒りは私を興奮させ、瞳からは涙が溢れた。たしかに私は怒っていたが、この涙は決して怒りから来たものではなかっただろう。
「ふんっ」
いつもの変わらない狐のその様子にわたしはまた口を開こうとしたが、興奮は、私の霊力の回路を刺激し喉からは虚空が発せられただけだった。
次第に視界は闇に染まり、意識が遠のいていくのがわかる。
ああ、何も言えない。このまま、最後がこれとはなんて、わたしらしいんだろう。悔しい、憎たらしい狐め、お前を少し信用していたわたしが何よりも、悔しかった。
「ーー名を呼べば、応えよう。 助けを求むならば俺の名を呼べ」
沈む意識の彼方で、そう聞こえたのは幻だったのだろうか。